大船法律事務所 辻堂法律事務所 平塚八重咲町法律事務所 某辯護士の「弁」

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湘南に3つ ~大船(鎌倉市)・ 辻堂(藤沢市・茅ヶ崎市)・平塚八重咲町~ の法律事務所を置く「弁護士法人プロフェッション」の弁護士某が仕事や出来事や趣味などを時々弁ずるブログ

カテゴリ:地域の出来事 歴史 研究等( 29 )

平塚七夕祭りの「技」

開催は7月第一週の金土日が原則ですが、今年に当てはめると、7/1-3になり時期尚早につき、2016年は例外で7/8-10開催です。

七夕は、旧暦(1か月程度遅れた8月になる)で考えると天気はよいのに、新暦で考えると梅雨の時期になってしまいます。
七夕に天の川が見れた記憶がないのはそのため。

新暦で行われる平塚七夕祭りの特徴は、期間中の雨の多さ。晴れる年は晴れますが(今年は空梅雨及び梅雨明けが早そうなため大丈夫なはず)、去年は三日間ほぼ雨でした。

ゆえに、

晴れ間を狙って行くのがよく、そのためには、数日前からの天気読みが大切。
言い換えると、行く日の特定が早すぎると当日雨になる確率が高い。

長い道の竹飾りを見ながら歩く祭りだから、折角なら晴れがよかろうと。
仙台は旧暦かつアーケードで屋根あり。対して、平塚は新暦かつ屋根なし。と肝に銘じるとよいでしょう。

露店が非常に多種多様で豊富なのも大きな特徴で、平塚七夕祭り=竹飾り+露店、という式が概ね成立します。

しかし、人や露店の圧倒さに比し、座るところの稀少さが目立つのが現状(至難の獲得競争を呈し、途方なく彷徨うことになりかねない)。

立ちながら歩きながらや地べたで食べるのがもし嫌なら、敷物やハンディな折り畳み椅子の持参がおすすめです。

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by ofuna-law | 2016-06-22 20:01 | 地域の出来事 歴史 研究等

玉縄城(関東三名城)

大船事務所至近の玉縄城(清泉敷地内で遺構も少ない)は、北条早雲の築城。

江戸城・川越城と並ぶ堅城で、関東三名城といわれた。

なお、辻堂事務所至近には、大庭城(城址公園になっている)がある。ここは遡ると頼朝時代に,大庭氏という武士がいて,頼朝と対峙し,最終的には滅ぼされた。
のちの早雲時代も,城として機能していた。

早雲は,三浦氏と縄張り争いをしていた。
当初の攻防ラインが大庭城,その後早雲勢優勢となり,玉縄城が攻防ラインとなった。
攻防ラインが西に移動したことにより,大庭城はその役目を終えたと言われている。
その後,早雲は三浦氏を滅亡に追い込む。

平塚事務所のある平塚市には、平塚城(平塚農業高校の場所。遺構はほぼない)があった。東京豊島の平塚城と区別し、相模平塚城ともいわれる。

城があり、城主や家臣がいて、戦があり、治める民がいたこと。思いをはせるときりがない。

加筆予定(調べ中)。

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by ofuna-law | 2015-10-01 08:00 | 地域の出来事 歴史 研究等
コンビニ弁当と違い、パッケージが色紙で見えないのが駅弁。コンビニ弁当なスケルトン。
駅弁の一番のおかずは、車窓風景。
とのこと。

湘南電車(JR東海道線)の車窓風景、イメージと異なり、実は、大船藤沢茅ヶ崎辺りは、湘南の海は見えない。

相模川が茅ヶ崎平塚の市境で、 だだひろい一級河川ゆえ南に、はじめて湘南の海が開ける(ちなみに、古来、この河口の眺望が、中国湖南省の湘江の河口のそれに匹敵するため、この地が湘南と呼ばれるようになった)。
この由来に思いを馳せ望むと、より味わい深いおかずになると思う。

大磯以西は徐々に海が近づき、小田原までの間、時折、車窓から海が望める。

海は時折しか見えなくとも、海の上の空は遠く広く青く開け(空が青いのは海が青いからとのこと)、青い湘南の海が写る湘南の空、これが抜群の車窓風景だと思う。

で、食べる駅弁はというと、湘南電車の全駅は、大船、藤沢、辻堂、茅ヶ崎、平塚、大磯など多々あるけど、この辺では、大船駅の駅弁「大船軒の鯵の押し寿司」しかない(と言って過言ではない)。

藤沢以西の駅は、数駅にわたり地場の駅弁店がないのです。で、大船軒が売店を出店し鯵の押し寿司が売られている。さながら、横浜駅半径数十キロの駅で崎陽軒のシュウマイ弁当が買えるのと同じ呈である。

小田原駅に至るとようやく(神奈川県が近時小田原以西も相模湾沿いは湘南との公式見解を出した模様)、東華軒という違う地場の駅弁店が登場する。
なお、東華軒は、小鯵の押し寿司がメーン。鯛めし弁当も有名。湘南の西側は養豚が多く、ブランドポークがあるから、豚肉の弁当もお薦め。

もし湘南電車に乗られるときは、これらの弁当と車窓風景をおかずにしてもらえると嬉しい。

追記 マツコ短信

彼女?のすごさは、話し手のどんな振りにも非常に温かく、話の引き出しが広いので「そうなのよねー」となって、決して相手を傷つけない(自身からの振りも含めて)柔軟な対応力、優しさだと思う。見習いたい(同年代だし)。
これは、彼女の接客業時代の経験から来るものに加え、おそらくご自身が著名になる以前は他人から冷たい対応を受けていた経験がベースにあるから、その逆張りを敢えて行っている(自分が嫌な思いをした分、何をすれば他人が嫌がらないか、嬉しいかを熟知している)のだと思っています。

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by ofuna-law | 2015-08-06 15:52 | 地域の出来事 歴史 研究等
神社仏閣巡り好きで、最近地味ながらトライしているのが「相模国六社めぐり」。

相模国六社は、次の六社。
延喜式(式内)神社に分類されてますが、その格式は現在不明。ただ、少なくとも神奈川(特に湘南)では、中でも特に寒川神社が有名だし、格式は高いはず。以下もその系列だから格式は高いのではと想像してます。

一之宮・・・・・・寒川神社(寒川町)
二之宮・・・・・・川匂神社(二宮町)
三之宮・・・・・・日比多神社(伊勢原市)
四之宮・・・・・・前鳥神社(平塚市)
五之宮(格)・・・平塚八幡宮(平塚市)
総社・・・・・・・六所神社(大磯町)

土地柄、幼少より寒川神社はよく知っていて、ここは「相模国一之宮」のキャッチ一押し。
ならば二之宮以下は、どこでどんななの?というのが発端。

順不同で、まず去年に平塚八幡宮、今年に入って前鳥神社→日比多神社→川匂神社を参拝。

パワースポットさでは前鳥神社が一番(参道アプローチが長く荘厳なのがよい)。
劣らず川匂神社(上に茅葺きの門を見ながら長い階段を登るとひらける先の社に風格あり)。

日比多神社は境内が小さいのでその分パワーも弱いように感じますが、強いか弱いかでいえば強いです。
平塚八幡宮は、噂では国道整備の関係で参道が削られたらしく、その分パワー減殺した感じがします。

古来、地場の武士・武将は、神社仏閣への寄進等で、力を誇示し民衆の支持を集めたとのこと。
この地では、まず頼朝。次に早雲のはずなのに特記はなく、出るのはその後の家康。

頼朝は政子安産祈願と寄進、家康は衰微を再興して種々の戦勝祈願をし、これらは六社共通の歴史(なお、以前ブログに記述した家康の江島神社弁才天での戦勝祈願も、その一環に位置づけられると推理され、その後の民衆の江島詣でに繋がる流れは既述)です。

で、本来参拝時にご朱印をもらうとツウと思いつつ、そこまではしてはないので、ツウではないのが残念。
代わりにすることは、必ずおみくじ。

結果が悪かったら結び、よかったら財布に入れます。今のところ、一度も結んでないのが自慢。

おみくじの項目の中に「訴訟」あるいはそれに類似するものがあって、例えば、「勝つ。油断は禁物」とか書いてあります。
玉虫色の記載ゆえ、反対解釈(仕事柄、穿っています)すると、油断したら負けるかもしれない、と突っ込んでしまいたいけど、そこはおみくじ。

次は、近いうち、気の向くまま、六所神社へ行きたいと思っています。
季節柄、あじさいが咲いていたら一石二鳥なのに。

なお、昔は、京の都から官吏が赴任すると、一之宮から1つずつ参拝していた習わしだったところを、各神社を分祀して合祀したのが六所神社。
だから、ここを参拝すれば、全部参拝したことになるとのこと。

移動手段が基本徒歩だったとはいえ、いわゆる省略なわけで、それでよしとしてもよかったのかなという疑問なし、としません。

結局今回も、法律とは無縁のブログになってしまいましたが、一応、「訴訟 勝つ。油断は禁物」についてと、反対解釈については書いたので、それで、よしとして疑問なし、としてほしいところです。

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by ofuna-law | 2015-06-18 09:00 | 地域の出来事 歴史 研究等
別荘地といえば、今は軽井沢、那須、熱海などが有名でしょうが、明治・大正・昭和初めは、神奈川の海辺が有名な別荘地でした。

(軽井沢に関する余談ですが、軽井沢を別荘地として有名にしたのは外国人です。外国人が気候や環境に着目して開拓。今や日本一ともいえる別荘地になりました。)

神奈川では鎌倉の海辺も、昔、多くの文人の別荘地であったことは有名な話。

ただ、今回は、鎌倉は抜きにして、大磯と鵠沼について書きます。

両者のうち、先に別荘地となったのは、大磯です。神奈川県中郡大磯町。

(またも余談ですが、この中郡には二宮町もあり、大磯町と二宮町はライバル関係です。あたかも、浦和と大宮、前橋と高崎、長野と松本のような構図がぴたりとあてはまります。例えば、大磯町出身の人に、「二宮町出身でしたっけ?」と間違えようものなら、小一時間は説教を受ける事態に陥ります。。。)

大磯に別荘を持っていた有名人では、伊藤博文、島﨑藤村、吉田茂、原敬などそうそうたる面々がいます。

(なお、吉田茂が大磯の別荘へ車で向かうにあたり、戸塚の開かずの踏切のせいで時間がかかりすぎるため、横浜新道の西にバイパスを整備させたという噂があります。余談ばかりですね。)

さて、なぜ、当時、大磯が別荘地になったのか?と思って少々調べた結果、明治~の交通が東海道本線(鉄道)のみということが関係しているようです。

東京から東海道本線に乗車した場合、海に直近するのは、品川の次が大磯が初めての地(ちなみに、「品川→横浜→(戸塚)→大船→藤沢→(辻堂)→茅ヶ崎→平塚→大磯」。現在の電車で1時間強ほどかかりますから、当時はもう少しかかったと思いますが)。

先日、先々本格的に大磯の有名人の別荘地散策をしようと思い、軽く下見しましたが、別荘地らしい風情が残っていました。潮風が心地よく、さながら離島の海辺の町のような感じ。古い家が多いです。道も狭く、それがまた昔ながらの雰囲気を醸し出しています。今後の本格散策が楽しみになります。

さて、一方、鵠沼は、藤沢市鵠沼または鵠沼海岸。江の島のやや西側に位置する海辺です。

藤沢駅からは、江ノ電または小田急線で数駅で到着。
この江ノ電や小田急線は、大磯が別荘地として栄えた頃にはまだ開通していませんでした。
ゆえに、大磯のほうが別荘地としては先で、鵠沼は後になるわけです。

江ノ電または小田急線開通後に、鵠沼は別荘地になり、栄えることとなります。
東には江の島、西には富士山が見えますし、閑静。いまでも海辺には砂防の松林がありますが、そういった風情。
あと、海水浴場があります。海水浴場としては、大磯も勿論適しますが、鵠沼は砂浜が大磯よりも東西に広いように思います。

また、丁度、ここらの海岸では、鵠沼のみ遊泳に適しているという特徴も関係しているかもしれません。
少し東に行ったり、少し西に行ったりするだけで、砂浜から海に入ると急に水深が深くなり、遊泳が危険になります。現在、鵠沼の東と西は、遊泳禁止区域になってますし。

ゆえに、藤沢市の海辺で別荘に適しているのは、鵠沼しかなかったように推察します。
ちなみに、いま鵠沼は別荘地というよりは、閑静な住宅街になっています。

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by ofuna-law | 2015-05-12 09:00 | 地域の出来事 歴史 研究等
1 日本三大七夕祭り

「日本三大七夕祭り」は、まず第1と第2は確定していて、仙台・平塚。
第3には、争いがあり、愛知県安城市と愛知県一宮市が、それぞれ主張している。

ただ、近時、安城市は、その主張を「願いごと日本一祭り」に変更した。弱気とも思える一方、日本三大七夕にこだわるよりも、日本一にこだわったのであろう。もっとも、願いごと日本一祭りという主張をしていることそのものが、市民はもとより全国に周知されておらず、現在のところ、その目論見は成功していない。。

第3を、安城説とするか、一宮説にするかについては、一宮説とすべきである。
理由は、上記のとおり、日本三大の主張を変更した安城よりも、安城よりも分が悪かった一宮が、自ら日本三大にこだわりつづける、その心意気を評価すべきこと、また、それに、後述する由来(なぜ、一宮にて七夕祭りが始まったのか)の説得力である。

2 関東三大七夕祭り

「関東三大七夕祭り」というくくりもある。平塚、埼玉県狭山市(入間川)、千葉県茂原市である。

ただ、平塚は、自らは全くこの呼び方を主張しない。
日本三大に数えられる以上、それよりも小さい関東三大というくくりは、平塚にとって不要だからであろう。
平塚の並々ならぬプライドが見て取れる。。

3 歴史

もともと、七夕を祝うようになる風習は、江戸中期とされる(諸説あり)。現在も、家や地域で、笹を立て短冊を飾り願掛けをして祝う。

それが大規模な「祭り」とされたのが、仙台で、江戸中期からのようである。ただ、風習が徐々に大きくなり、祭りとなるのが通常の流れであることからすると、風習が江戸中期からとすると、同時期である江戸中期の仙台の七夕祭りの規模は、小さかったと推測される。

仙台は、その起源を、藩主伊達正宗公が、子女の手芸を上達を願うため、強く七夕を祭ったことに由来するとし、その時期を、江戸初期としている。

正宗公が子女の手芸を上達を願ったことや、正宗公が江戸初期に活躍していたことは正しい史実としても、そのころ(江戸初期)から強く七夕を祭ったというのは、七夕が祝われるようのがそもそも江戸中期だとすると、飛躍が否めない。
むしろ、昭和以降の仙台が、日本一の七夕祭りであるという主張を強く根拠づける後付けの主張とすべきではなかろうか。。

なお、七夕を江戸中期から祝うようになったという起源を裏付ける資料まで当たっていないので、その起源自体が揺らぐならば、江戸初期に仙台が七夕祭りを始めたという事実は、その正当性が強まるので注意が必要である。

さて、なぜ七夕が「子女の手芸の上達を願う」なのかというと、物語上、彦星と織姫が、願う=「願掛け」となり、短冊を書くは、短歌を筆で書くことで、短歌は、学問を意味し、筆で書くは、習字と転じていること。また、織姫の「織り」が、針仕事・機織り・染め織りを意味すること。それゆえ、これらの上達を願う祭りに繋がってくる。もちろん、祭りであるから、豊作豊漁を願い、それに感謝することも含まれてくる。

話を戻すと、仙台の七夕祭りは、江戸中期には始まっていた。そして、その起源は、伊達正宗公にある。

では他方、仙台以外の、平塚・安城・一宮・狭山・茂原での始まりはいつか。

平塚は、昭和25年
安城は、昭和29年
一宮は、昭和31年
狭山は、江戸中期
茂原は、昭和30年

である。
狭山の歴史は、仙台と同じころからであった。
他方、仙台・狭山以外の平塚・安城・一宮・茂原は、戦後である。戦後に開始したのは、いずれも、戦後の復興祭という意味合いが非常に強い。すなわち、地域振興や、周辺地域からの来客を呼び込む意味合いである。

ただ、「戦後の復興祭」は全国各地で行われたのであり、なぜ「七夕」なのかという意味は疑問である。この点に関しては、七夕の上記意味の側面からアプローチしてみる。

織姫の「織り」からは、繊維・紡績へと意味を転化できる。

この点で、まず、平塚には、関東紡績と相模紡績という紡績工場が存在していた。
この点で、七夕との強いつながりを見い出せる。

同じ意味では一宮が該当する。一宮は、昔から繊維・紡績で栄えた。

そもそも、一宮とは、尾張国一宮を意味し、宮とは神社であって、「真清田神社」のこと。
この神社の祭神の、母神が、「萬幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)」であり、機織りの神。
このことからも、一宮が昔から繊維・紡績で栄えたことが認められる。そして、現在も、繊維・紡績業は行われている。

それゆえの一宮七夕なのである。

なお、上記のとおり、日本三大七夕祭りの第3について、一宮説(安城説を否定)を支持するのは、「織り」と「真清田神社」という説得力を評価したゆえである。

一方、安城と茂原については、現状、七夕の意味からのアプローチは困難であった(なお、安城には、倉敷紡績安城工場という紡績工場があったが。。)。
現時点では、この二つの地で、戦後復興のためになぜ七夕か、という疑問には、「偶々」という答えが相当のようである。。もちろん、学問・習字・針仕事・手習い・豊作豊漁祈願等の意味があり、七夕を祭るという意義は極めて重要である。

4 開催時期・規模

日本三大・関東三大といわれるのは、上記由来や歴史に加えて、規模という要素は欠かせないであろう。

加えて、時期も列記し、それぞれの祭りを比較してみる。
なお、七夕が7月7日であることは公知の事実である。もっとも、日本には、旧暦と新暦がある。旧暦の7月7日は、新暦の7月の下旬から8月上旬とされる(太陽の位置で換算するようで、幅があるらしい)。

仙台 204万人/3日間(日換算68万人) 8月8日ころ 3日間開催
平塚 170万人/3日間(日換算56万人) 7月7日ころ 3日間開催
安城 102万人/3日間(日換算34万人) 8月8日ころ 3日間開催
一宮 130万人/4日間(日換算32万人) 7月下旬ころ 4日間開催
狭山  43万人/2日間(日換算21万人) 8月8日ころ 2日間開催
茂原  84万人/3日間(日換算28万人) 7月下旬ころ 3日間開催

このデータ比較からすると、日本三大七夕の第3について、安城と一宮がしのぎを削っているのがよく分かる。さながら、餃子消費量で宇都宮と浜松が競っているのと同じ構図といえよう。。

ちなみに、平塚のみ新暦を採用している点が耳目に値する。

新暦を採用した場合、伝統性や歴史性から離れるという難点が否めないが、開催開始時の平塚市長は、新暦にすると、「飾りを旧暦開催の七夕祭りの地へ譲渡できる」と話していたという。一見合理的である(ただし、この点については、最期に余談で述べる)。そして、この合理性から推理すると、新暦開催は、旧暦開催の七夕祭りと時期がかぶらず、来客が見込めると考えたのではなかろうか。

5 余談

湘南では、まことしやかに「平塚七夕祭りの飾りが、仙台七夕祭りで再利用されている」と言われている。

このことを、仙台の方々に話すのは危険である。猛烈に否定され、友好が途絶えかねない(実際、そのような体験をしたことがある。人格否定に近かった。。)。

また、仙台同様、旧暦開催の安城・一宮・狭山・茂原の方々に、「平塚の七夕祭りの飾りが再利用されている」と話そうものなら、仙台の方々と同様、断固否定され、友好が途絶えかねない。

それは至極当然である。
地元の祭りなのだから。
飾りは、地元市民や地元企業が、願を掛け、祝金を掛けて、創意工夫し独自の飾りが作られるはずだからである。

平塚七夕祭り開始当時の平塚市長の「譲渡」発言は、一見合理的であったが、実現しなかったと考えられる。

by ofuna-law | 2015-03-30 12:40 | 地域の出来事 歴史 研究等

平塚の3不思議を語る

1 平塚の河川
  
平塚市には、東側の茅ヶ崎市の境に「相模川」、西側の大磯町の境に「花水川」が流れる。

そのほかに「馬入川」「金目川」という河川も少々知られる河川だろう。

この4つの河川の区別ができていない方が多いのではないか。というか、私が混乱していたので、整理した。

まず、「相模川」と「馬入川」は、同じ川である。相模川の下流域を、特に「馬入川」という。
国道1号線(東海道)の橋で、河口から数えて2番目(なお、1番目は湘南トラスト大橋)が、馬入橋。

この馬入橋以南は、相模川を馬入川と呼ぶといっていい。名前の由来は、建久九年(1198年)の冬、馬入橋架橋時に、頼朝が馬で渡り初めをした際、源頼朝が馬で川に落ちたからと言い伝えられている。ゆえの馬入橋と馬入川。ちなみに、頼朝は、この落水が原因で、病気(肺炎か?)になり、亡くなったという。
なお、そのころの川筋は、現在よりも約一キロメートル手前(東の茅ヶ崎側)の小出川畔を流れていた。関東大震災で旧相模川の橋脚が隆起し判明。この橋脚は国の史跡となっている。

次に、「花水川」と「金目川」は(も)、同じ川である。これらは、北方の秦野市方面から南の相模湾へ流れるが、平塚市内で「渋田川」と合流する。この合流地点の以北が「金目川」、以南が「花水川」だ。

かつては,金目川と渋田川の合流地点から下流も金目川と呼ばれていたらしいが、その下流の桜を,頼朝(ここでも頼朝。。)が桜見にきた。しかし、花を見ずに帰った。ゆえに、花水川となったと言い伝えられている。ここからは推論だが、花を見ずは、花不見(漢文)または花見不になりそうだが、「不」のマイナス印象ゆえ,避けられ,「水」の文字が当て字にされたのではないか。

2 平塚市南部の道路区画と町名の不思議

さて、平塚市の東海道線よりも南側は、碁盤目に東西南北に道路が整備されている。
平塚駅南口から海へと繋がるメインストリート(なぎさプロムナード)は、幅も広く、歩道も整備され、一見の価値がある(駅から徒歩2~3分には、平塚で代々の国会議員、河野邸もある)。

もっとも、その碁盤目に整備された道路に、なぜだか北西から南東へと斜めに入る道路がある。

気をつけないと、碁盤目という前提で、東に向かっているつもりが、その道路が斜めに入る道で、いつの間にか、東ではなく南東へと進んでしまう。

道路の碁盤目整備は、平塚大空襲に関係がある。平塚大空襲により、焼け野原になった南部の新たなまちづくりで、道路が碁盤目に整備された。

にもかかわらず、なぜ斜めに入る道路を入れたかというと、馬入川の河口にある須賀港(現在の平塚港あるいは平塚新港)が存在したからだ。

この港は、江戸時代やそれ以前に、海運で非常に栄えた。海から廻船が集中し、高瀬船で相模川を北上し、厚木や相模原方面へと物資を運んでいたのである(現在の中心街は平塚駅北口付近だが、昔は須賀港付近であった。物資が集まっていたから当然といえる)。

その須賀港に集まる物資は、須賀港から見て、北西に位置する平塚中心地市内(江戸時代、徳川家の直轄領であり、徳川家康が鷹狩りに来て、中原を宿地にしていた。「中原御殿」という。また、東海道の平塚宿があった)に、陸送された。

その陸送道路は、繁栄する須賀港から、中原・平塚宿を直結する重要な道路で、ここが、平塚大空襲後の道路区画整理の際も、しっかりと残されたのである。

平塚市の南側は、町の地名の名付け・読み名が綺麗なのも特徴である。例えば、八重咲町(当法律事務所があるから一番先に書いた。。)、松風町、菫平(すみれだいら)、袖ヶ浜など。

これらの町名は、平塚大空襲により、南側が焼け野原になったことを契機に、復興の趣旨が込められたからだと推測している。

3 湘南ベルマーレの不思議

湘南ベルマーレは、ホームグラウンドが平塚市にある。昔は、ホームタウンも平塚で、チーム名がベルマーレ平塚だった。

全国的に高くはない平塚市の知名度アップのためには、ベルマーレ平塚のままがよかったはず。例えば、鹿嶋アントラーズにせよ、浦和レッズにせよ、限局された市名を冠としているのだから。
中田英寿や岩本輝雄ら日本代表を輩出したクラブという歴史を考えてもだ。

ただ、資金力がなくて、周辺自治体も巻き込み改名したとのこと。仕方ないが、湘南というと、茅ヶ崎、江ノ島、鎌倉あたりが思い出されるから、平塚色が極めて薄まった気がして惜しい。
でも、ホームでの試合日は、市内にサポーターがゾロついていて、盛り上がっている。ホームグラウンドがあるからならではの風景だ。
by ofuna-law | 2015-03-29 09:42 | 地域の出来事 歴史 研究等
江戸初期,家康が江戸入りに用いたのは,東海道ではなかった。
駿府から東へ進み,途中,中原街道(後北条氏が整備。東海道の脇往還に位置づけられる。中原街道の一部は鎌倉街道でもあったらしい)に入り,江戸入りした。その後も中原街道は駿府への往還に使われた。

1 江戸初期は東海道未整備ゆえ,宿場町の藤沢宿(神奈川県藤沢市)も,まだない。

ただ,そのころ,藤沢御殿という家康・将軍家の宿泊施設があった。
場所は,藤沢公民館と藤沢市民病院の間の辺りとのこと。

近時,藤沢宿復興プロジェクトが進むが,この藤沢御殿も合わせて復興すると,歴史好きの興味を引くと思う。

2 川崎市中原区には,小杉御殿という,家康・将軍家の宿泊施設があった。武蔵小杉駅の北,新丸子駅の西の辺りとのこと。

ここは,中原街道上の御殿である。
川崎市中原区は,この御殿辺りが旧中原村で,中原街道を地名由来とする。ゆえに,中原区の地名由来は中原街道である。
綱島が綱島街道を地名由来とするのと同じである。

3 中原街道は,中原御殿(神奈川県平塚市中原)という,家康・将軍家の宿泊施設を西方の起点とする。

この地周辺は,当時は天領。家康が鷹狩りを行った場所。
中原御殿は,鷹狩りの際の休憩・宿泊に使われた。
中原街道の中原の地名由来は,この中原御殿にある。とはいえ,鷹狩りが行われる場所の地名が中原。草木が茂る広い広い平原の中に御殿が建てられたのではないか。

中原御殿の門は,いま寺の門となり現存。周囲が平坦なのが鷹狩りを想像させる。

4 平塚でも平塚宿再興プロジェクトが進む。

藤沢と同様、平塚市も,平塚宿と中原御殿を合わせて復興したらどうか,というのは難しい。両者の位置がやや遠く,徒歩で回るのは遠すぎる。

むしろ、中原街道沿いの史跡の復興はどうか。
東海道宿場町復興は,他にもありきたりで差別化は困難だと思う。
が,中原街道なら違う。特に,着目できるのが,下記,田村及び四之宮の渡しという史跡の復興である。

5 中原街道は,基本的に,中原御殿から江戸を一直線に結んでいる。

東海道よりも,江戸へは一直線。東海道は大名行列に使われ煩雑。
ゆえに,農産物等運搬や旅人の最速ルートとして用いられた。赤穂浪士の江戸入りにも使われたとのこと。

江戸から見ると,現在の国道一号線桜田通り辺りが起点。そのまま平塚御殿へと西へ続く。

平塚に入るために相模川を渡る際は、田村の渡し又は四之宮の渡しが用いられた。
田村は,平塚市田村。四之宮は,平塚市四之宮。相模川の対岸の寒川町(相模国一之宮の寒川神社がある)から渡る。

田村も四之宮も,平塚市中心部(JR平塚駅・東海道平塚宿・平塚八幡宮)からは,かなり北方にある。国道246号線沿いにそれぞれ位置し,訪れるのには車を用いる必要がある。四之宮のさらに北方の田村は、もう厚木市に近い。

両方とも,その周辺のみ飛び地のように栄える。

田村に中原街道の「相模川の渡し」があり,四之宮にもあった。また,四之宮は相模国四之宮の前鳥神社の門前町でもあったろう(推測)。
相模川を渡る場所となるから,人と物が集まったはずで,そのころの賑わいの名残で今も栄えているのだと思う。

6 中原街道の宿場町は,脇往還ゆえ,東海道ほど整備されていなかったが,「立継場」という荷物等受け渡しを主とする宿場があった。

それらの場所は,小杉(神奈川県川崎市中原区),佐江戸(神奈川県横浜市都筑区),瀬谷(神奈川県横浜市瀬谷区),用田(神奈川県藤沢市)。

中原街道のルートは,現在,江戸時代と多少異なるが、なおも主要地方道として利用されている。
by ofuna-law | 2015-02-01 10:00 | 地域の出来事 歴史 研究等
平塚八重咲町法律事務所開設後、初めて気づいたことがあります。

それは、平塚市の「囲碁のまちひらつか」を標榜したまちづくりの取り組み。

そして、これが、いまの弁護士・裁判官・検事(法曹)なら、普通知っている「木谷(きたに)明」元判事(1937・昭和12-)に、繋がること。

将棋の町といえば、山形県天童市(将棋盤を作るのが根拠)。
囲碁の町といえば、平塚市(「囲碁のまちひらつか」)なのです。なお、囲碁で、まちづくりをする市が他にもあるようですが、これらは、もっと知られていない。

「囲碁のまちひらつか」の発端は、木谷實(1909・明治42-1975・昭和51)棋士にあります。上記木谷明元判事のご尊父に当たります。

1 木谷實棋士について

木谷實棋士は、20世紀の棋士で指折りの大棋士。「囲碁界の父」と呼ばれます。

「新布石」という革新的序盤理論を確立しました。
川端康成の小説に「名人」という本因坊との囲碁対決観戦物がありますが、対戦相手の「大竹棋士」が木谷實棋士。

この木谷實棋士が、昭和12年に平塚市に転入。そして、いまでも跡地には石碑が立つ平塚市桃浜町に「木谷道場」を開設。
平塚八重咲町法律事務所からは徒歩2~3分の場所にあります。

2 木谷道場と「囲碁のまちひらつか」について

木谷棋士は対局で全国を回る中、各地の才能ある少年を集め、「木谷道場」にて育成しました。
ここから多くの大棋士が育ち、昭和後半のタイトル戦線をほぼ独占。
孫弟子を含めた一門のプロ棋士は50名以上で、段位合計は500段以上にもなるそうです。

この功績を踏まえ、平塚市は「囲碁のまちひらつか」となりました。

「囲碁のまちひらつか」は、公益財団法人平塚市まちづくり財団が展開し、平塚市市民センター内に「星のプラザ」というサロンを開き、木谷實棋士の功績紹介や平塚で囲碁のまちづくりを進めています。
例えば、毎年「湘南ひらつか子ども囲碁大会」や「湘南ひらつか囲碁まつり1000面打ち大会」を開催しています。

マンガ「ヒカルの碁」を監修した梅沢由香里棋士も、木谷門下の弟子筋にあたります。

3 木谷明元判事について

木谷元判事は、昭和12年に出生。
平塚学区で1番の公立校「平塚江南高校」入学。
東大を経て、司法試験に合格。1963年(昭和38年)に裁判官任官。

法曹としては、東大から裁判官という、いわゆるエリート。裁判官になるのは、当時も今も、司法修習生の中では1番の難関。平塚江南高校OBでは指折りの大法曹になると思います。

ご著書の「刑事事実認定の基本問題」が、司法試験合格後、誰もが読むような基本書です。
表題に「刑事」とあるように、刑事弁護、刑事裁判、検察実務への影響はとても大きいです。

ご著書のうち「刑事事件の心-事実認定適正化の方策」は、映画「それでもボクはやっていない」の周防正行監督が、参考にした本として有名です。

4 小括

以上が「囲碁のまちひらつか」→「木谷道場」→「木谷明元判事」の繋がりとなります。

5 その他

木谷元判事は、2000年(平成14年)に東京高裁部総括判事として退官され、公証人・法科大学院教授を経て、現在は東京で弁護士をされています。

裁判官経歴は、浦和地裁刑事部部総括、最高裁調査官(注:最高裁調査官は陰で最高裁を支える役職)、数か所の地裁の所長などを歴任。
裁判官は、任官後に、民事裁判官へ進むか刑事裁判官へ進むかという大きな岐路がありますが、木谷先生は刑事裁判官。

後々「人権派の裁判官」と呼ばれるようになり、99.9%の有罪確率の現実の中、約30件の無罪判決を「確定」(地裁の無罪判決は、高裁で逆転有罪が多いため、無罪で「確定」は0.01%の内訳からすると驚異の数)させています。

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by ofuna-law | 2014-12-01 10:00 | 地域の出来事 歴史 研究等
JALの雑誌を見ていたら福岡市のランドマークという「旧日本生命九州支店」の大きな写真が。
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これを見て、すぐ、横浜地裁の隣の通称「ジャック」こと、横浜開港記念会館を思い出しました。
横浜地裁は、仕事柄、一番行く裁判所。その敷地内には、横浜弁護士会館も、横浜地方検察庁もある。その隣(正確にはその三軒の道を挟んで向かい)に、この横浜開港記念会館は佇立しています。
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調べてみると、「赤煉瓦に白い花崗岩の化粧帯を走らせ、大きなドームを王冠のように載せる」という、この建築様式を、「辰野式建築」と呼ばれるそうです。

辰野とは、辰野金吾という建築家。辰野は、工部大学校(現東京大学工学部)第1期生の首席で、ジョサイア・コンドルに師事したという、その道では著名な建築家ということです(知らなかった)。

辰野式建築の中で、これまで私が既に観光していたものも見つかりました。

まずは、岩手銀行旧本店本館です。
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また、東京駅があります。
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さらに、ここは行ったことがないですが、大阪市中央公会堂も、辰野式建築の代表とのことです。
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辰野式建築は、辰野だけでなく、その弟子たちによって全国に広められました。

さて、以上の中で、1つだけ、辰野の作ではなく、その弟子の作品があります。それはどれでしょうか?(笑)

それが、まさに「横浜開港記念会館」です(笑)。
辰野の弟子である福田重義が設計しました。
他にはない高い時計搭があり、他と比べて非常にシャープな印象です。辰野の作は、どちらかというと、どしんと大きくて重い印象で、なんとなくですが、素人なりに違いを感じます。

辰野式の特徴である「大きなドームを王冠のように載せ」ている上、近くに神奈川県庁という、県の長がおり、ここの通称が「キング」ということから、横浜開港記念会館は、「ジャック」と呼ばれるのかな。

そう想像しました。
by ofuna-law | 2014-03-02 14:04 | 地域の出来事 歴史 研究等

湘南に3つ ~大船(鎌倉市)・ 辻堂(藤沢市・茅ヶ崎市)・平塚八重咲町~ の法律事務所を置く「弁護士法人プロフェッション」の弁護士某が仕事や出来事や趣味などを時々弁ずるブログ


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