大船法律事務所 辻堂法律事務所 平塚八重咲町法律事務所 某辯護士の「弁」

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湘南に3つ ~大船(鎌倉市)・ 辻堂(藤沢市・茅ヶ崎市)・平塚八重咲町~ の法律事務所を置く「弁護士法人プロフェッション」の弁護士某が仕事や出来事や趣味などを時々弁ずるブログ

カテゴリ:地域の出来事 歴史 研究等( 30 )

海が薫る街

夕方、平塚事務所の前だけでなく、平塚警察署に寄って車から降りたときも、海の香りがした。

空気にうっすらと海水の塩分が混ざり、海水の水分も多分に含まれて、肌にじとっと、若干べたべたするような感じ。
ただ、日差しが強く暑すぎた昼から夜へ向かい温度が徐々に下がってきたせいか、はたまたクーラーを浴びた直後の体だったからか、不快ではなかった。

異常に短い梅雨があっという間に明け、初夏すら通り越して、すっかり猛暑の夕べだ。

平塚事務所から海(相模湾)までは、直線距離で約1キロ。この付近で海の香りがするのは珍しくはない。
でも、平塚警察署から海までは、直線距離で約2.6キロ。初めて、この付近も海が香るのか、と驚いた。

今週末、7/6(金)~8(日)に、平塚最大の祭り「平塚七夕祭り」が開催される。
日本三大七夕祭りのひとつ。

新暦で行われる七夕祭りは全国的に珍しく、例年梅雨時ゆえに、雨が多く、期間中ずっと雨ということさえある。
珍しく既に梅雨明けした今年こそ、期間中晴れが続くかと思いきや、どうやら週末は天気がぐずつき、例年通り雨は降るらしい。

平塚の七夕祭りは、平塚大空襲(1945/7/16~17。死者約300人)からの復興祭が起源である。
平塚大空襲の時期に合わせ、復興を願う祭りをしようという意思と、その時期が新暦ではあるが七夕に重なるために、七夕祭りへと昇華したようだ。

平塚事務所を開設して4年経ち、今更ながら、ようやく、平塚七夕祭りの雨は、涙雨に違いないと思うようになった。

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by ofuna-law | 2018-07-03 22:51 | 地域の出来事 歴史 研究等
知りうる限り、湘南内、JR東海道線の大船駅、藤沢駅、辻堂駅の周辺には、酒が呑める「屋台」はないと思うし、藤沢には、私鉄の小田急と江の電が通るけれども、それらの駅にも、ないと思う(あったら、こっそりと教えてほしいです)。
西に寄って、茅ヶ崎駅は、使う頻度が少ないので、もっと知らないが、おそらくないはず。

でも、更に西に寄って相模川を渡ったら、JR平塚駅には、ある。
場所は、西口改札を北側に下り、線路沿いを西に徒歩1-2分、中央地下道の脇に、3台、ある。

ずっとちょっと怖いのもあって立ち寄れなかったのを、勇気を出し(二軒目の酩酊の勢いもあって)はじめての立ち寄り。
レモンサワー1杯とおでんを4品えらんで、千円でした。

そもそも、屋台で呑んだのは、高知だけかもしれない。そこは観光名所。福岡の屋台も観光名所で有名だけど、行けていない。
記憶の片隅にずいぶん昔にどこか遠くの屋台で呑んだ記憶がある。名古屋だったか。

平塚のその屋台の大将(70代かな。呼び名がそれでよいのか、マスターとか、おっちゃんとか、もありうると思ったけども)に聞いたら、この場所で屋台をやる権利は、大将一代限りとのこと。

仕事柄、法律的な権利関係を一瞬考えたが、一瞬でそういうのをやめ、すぐレモンサワーとおでんと、屋台ならではの雰囲気を味わうことにした。

次来るときのために、定休日や営業時間を聞いたら、「雨の日はやらねー」「都合が悪い日はやらねー」「今日はもう閉めようと思ってた」「昨日は遅くまでやったぞ」ですと。

要するに、晴れていて、大将が今日はやろうって思ってそうな日に行けばいいってことですね(かなりむずかしいです)。

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by ofuna-law | 2018-05-24 20:38 | 地域の出来事 歴史 研究等
ふと興味がわいて、大船藤沢辻堂平塚の地名の由来について調べた。ただ、ネットからで原典にあたっていないので要注意。

結論として、一貫した共通点が見えた。
すなわち、全て湘南地域にあるが、地形的に海(相模湾)に面した土地ということが、地名由来に大きく関わっている点。

それは、遥か昔の湘南の海岸線が、いまよりもずっと山よりで、湘南の東西を走る東海道線の南手前くらいまで海岸線だったことも関係する。
海岸線が山よりだった分、砂浜、砂丘、海へと流れる川、沢、その周囲の湿地など、この地域は、水地帯的な土地であったようだ。

まず、大船の由来。

ここは、まさに昔は、湿地帯の中に、丘が点在する土地であった。

それは、大きな船が入れるほどのものだったとのこと。この大きな船から「大船」となった。
これに似た説が、粟を積んだ船が出入りし、そこから「粟船」となり、それが「大船」に転じたという説。ちなみに、大船の鎌倉よりに常楽寺というお寺があるが、その山号を粟船山という。

これらの説自体、この地域が海岸から近い水地帯であったことを示す。

なお、丘も多いことに着目し、その丘の形状が船に見えたとして、大船という説もある。ただ、水なくして船はないから、やはり水地帯と切り離せない。

余談だが、大船には、屋号などに「田園」の表記が非常に多い。大船事務所の1階は田園印刷所だ。では、大船には田園という住居表示はないのに、なぜ「田園」なのか。

それは、昔、まちづくり策として、世田谷の田園調布を目指した「大船田園調布計画」というものがあった(駅を中心に放射状・同心円状に道を配置し、街と駅との動線を合理的に配置する)ことから来ている。実現はしなかった。ただ、田園という表記は多く残ったと。
この計画が実現していたらを想像するだけで楽しい。そして、残念である。

次に藤沢。

藤の木が多かったという説がまことしやかにいわれるが、これは最近になっていわれるようになった俗説。
また、藤沢姓の有力武士の館があったことから、藤沢となったともいわれる。だが、その有力武士が館を建てたときには、もう既に藤沢という地名があり、その武士は土地名を名乗ったもの。由来とは言い難い。

最も妥当とされるのが、「淵沢」が転じて「藤沢」となったという説。

すなわち、やはり藤沢も水地帯であり、淵や沢が多い土地で、そのために、淵沢と呼ばれるようになった。これが、藤沢となったと。
訛り言葉として変化したか、あるいは、淵よりは藤のほうが地名として相応しいとされたのではないか。

ちなみに、藤沢駅北口のマックやファミマがある付近は、字を「横須賀」という。

この須賀とは、後に詳述するが、神奈川県内では、横須賀と同じだ。

もともと「スカ」とは、海に沿った高地、砂丘、砂地という意味。横須賀は、横に砂丘や海岸がある土地という意味といわれる。

藤沢駅北口直近に「横須賀」という字があるのは、昔はここが海岸線に近く、砂丘や海岸があり、その横に集落があったと考えて自然だ。

次に辻堂。

辻堂もやはり水地帯であった。たとえば、「浜見山」は、昔は砂丘。浜が砂丘の上から広く見通せたという。
「柳島」は本当に島だった。後に陸地化した。
その他、「南湖」なども水に関連する。おそらくではあるが、湖の南の土地、逆に、湖が南にある土地というのが由来であろう。

そもそも、辻堂は、もともと「八松ヶ原」と呼ばれていた。砂浜に八本の松があったことからきている。
砂浜の八本の松という意味では、八松ヶ原という地名も、海が関係している。

それが辻堂に転じたのだが、この名は水関連からはずれる。ちょっと残念。

辻堂の由来は、漢字を見ると推理できる。「辻」と「堂」。
現在はもう僅かしか遺稿が残っていないが、辻堂には、鎌倉街道の十字路があった。十字路とは辻。そして、その十字路にお寺があった。お寺とは堂。

問題は、その場所。
辻堂には現在3つの寺がある(昔はもう1つあったとのこと)が、この中でも、「南の寺」と呼ばれる宝泉寺が、その堂であろう。

それは、鎌倉街道が直近を走っていた点だ。これは動かしがたい事実。
また、地元ではこの宝泉寺を中心とした東西南北が、それぞれ東町、西町、南町、北町といわれている点。

あと、これも私見であるが、前述のように、辻堂と呼ばれる前は、この地域は八松ヶ原と呼ばれていた点。この八松という地名は、現在の住居表示を探す限り見当たず、八松という表記のみ、八松小学校という小学校名として残る。この八松小学校が、宝泉寺のすぐそばだ。

結論として、辻堂は、この宝泉寺(堂)と鎌倉街道の十字路(辻)が由来と考えるのが妥当だろう。
そして、鎌倉街道といえば頼朝であり、その影響(湘南地域における頼朝の伝説や威光は調べれば調べるほど深い)や、地名として「八松ヶ原」は長いから、シンプルに「辻堂」に転じたと考えてよいと思う。

最後に平塚。

これも諸説が割れているが、平塚の「塚」は、「スカ」が「ツカ」に変化したのではないかという考えが有力だ。昔の人がスカをツカと訛っても、不思議ではない(今も湘南には「だべ」「じゃん」など特有の訛りが残る)。

「スカ」とは、前述のとおり、海に沿った高地、砂丘、砂地などの意味がある。

平塚には、馬入川(相模川)の河口に、「須賀港」という港がある。いまでこそ、海釣りの港としての知名度くらいであるが、近世から大正まで(鉄道や自動車が主流になる前)は、ここが水運の地として栄華を極め、平塚の中心が須賀港であったといってよかった。

全国の回船が須賀港に集まり、高瀬舟が相模川を遡上し、厚木、相模原、八王子、果ては山梨県の上野原方面へと物資を運んでいた。
なお、この点に関しては、相模川を挟んで真向いある茅ヶ崎市の「柳島」にも同様の港があり、須賀港と熾烈な利権争いをしていた。当時の訴状等古文書が現存する。

この須賀港自体、須賀=「スカ」としていまも港名として残り、周辺も須賀地区と呼ばれ続けている。
まさに海沿いであり、砂浜がある土地、港及びその周辺地区にほかならない。

では、平塚の「平」とは?

地名としての「ヒラ」は、斜面を表す。すなわち、平は、丘ということ。
この丘というのも、私見では、普通の土の丘ではなく、砂丘を意味すると思う。

いま、平塚の南側は、基本的に坂も丘もない真っ平らな地域。
もし、ヒラが土の丘であったなら、時代とともに、簡単に平らになるだろうか。
一方で、もし、砂丘であったなら、時代とともに、平らになりやすい。

前述の辻堂の「浜見山」も、海が見渡せた砂丘であったとされるが、いまは砂丘は影も形もない平地だ。平塚市の南側相模川近くに「夕陽ヶ丘」、それよりも西方に「龍城ヶ丘」「黒部丘」など「丘」のつく地名があるが、いずれも既に平地であり丘ではない。

よって、「ヒラツカ」という呼び方そのものも平塚の地形、すなわち、砂浜、砂丘、ひいては、海を由来しているといえよう。

最後に近時思う私見を付言する。

歌川広重の東海道五十三次浮世絵「平塚」は、湿地帯の中の道を渡る旅人の背後に高麗山(湘南平)がそびえる構図となっている。これぞ広重も認めた平塚を代表する地形といえる。
この湘南平を「ヒラ」(丘)、その麓の東方に広大な「スカ」(砂浜や海沿いの湿地)が広がると見立て、「平塚」と呼ばれたというのもあり得なくもないのではないか。

なお、東海道線に乗ると、平塚駅や下り大磯方面発車後に、この構図と同じ風景が今も広がる(ただし、湿地帯は陸地化・市街化している)ので、是非通過の際は着目していただきたいと思う。

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by ofuna-law | 2018-05-03 09:47 | 地域の出来事 歴史 研究等
環境依存文字らしくタイトルの文字化けが見受けられましたので、下部に画像を添付しました。

口へんに愛と書いて、噯(あつかい) と読みます。
中世では、紛争を調停することを、噯(あつかい) といったとのこと。

宮本昌孝著の「武者始め」という歴史小説で知りました。
この本は、戦国武将の初陣をテーマにしたもの。

冒頭の短編が、伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)の「武者始め」。

駿河今川に仕える新九郎が、当主の戦死により勃発したお家騒動につき、噯(あつかい) をすることに。
噯(あつかい) をする者を、噯手(あつかいて)とか噯人(あつかいにん)といったとも。

問題は、世嗣ぎを、当主の子(幼児)とするか、それとも当主の亡兄の子(成年)とするか。

現代に引き直すと、交渉事ならば弁護士が、調停なら調停委員が、裁判なら裁判官が、それぞれ噯手ないし噯人とかつては呼ばれた立場だったということになります。

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by ofuna-law | 2017-11-15 22:00 | 地域の出来事 歴史 研究等
平塚市の、特にJR東海道線よりも南部には、洋菓子店(ケーキ屋)が非常に多い。

「葦」(湘南チーズパイ)、「シルスマリア」(生チョコ~公園通りの石畳)、「バッハマン」(バームクーヘン)など。ちなみに、括弧内は各店の代表菓子。いずれも、ケーキ販売も豊富なラインナップがある。

一方で、歯科医院も、非常に多い。弊所のある平塚市八重咲町の範囲内に限っても、約8つもある。

人口比でいう洋菓子店と歯科医院の割合が、絶対に高いはず。他県他市を転々としてきた人間が言うのだから間違いない。

仮説だが、この洋菓子店と歯科医院には「風が吹けば桶屋が儲かる」構造が当てはまっていると思う。
すなわち、洋菓子屋のケーキ等を食べるから、虫歯になるリスクが高く、歯科医院に行く人が多いという構造である。

論理飛躍があるか。。。

では、話を少し変え、そもそも何故このように洋菓子屋が多いのか。

それは、老舗の「葦」があり、そこで修行したパティシエ達が独立していったのではないかという仮説がひとつ。
それと、平塚市のJR東海道線よりも南部は住宅街であり、飲食店が少なく(JR東海道線より北部の駅周辺に飲食店が集中している)、その1ジャンルである喫茶店も同南部にはもっと少なく、更にケーキを食べられる喫茶店はもっと少ない。そのため、ケーキ等は、買って自宅で食べる文化があるという仮説がひとつ。

(本記事に限らず、いつも仮説ばかりだが)こういった独特の街文化及び供給需要関係が成立している印象が、非常に強いと感じる。

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by ofuna-law | 2017-07-11 09:00 | 地域の出来事 歴史 研究等
後北条氏の本拠「小田原城」。昨年リニューアルされ、過去最高の観光客が押し寄せている。

後北条氏は、戦国時代における関東の覇者である。初代早雲は下克上の先駆けでもある。
家康も、江戸城、江戸の街づくり、上水整備など、小田原を模した。

にもかかわらず、後北条氏はなぜ地味なのか。

地元に住む筆者が痛感するのだから、その地味感は自然な国民感覚であろう。

私見であるが、理由のひとつは、天下人秀吉に負けたこと。歴史における敗者は、勝者の歴史を華々しく飾る反作用として、殊更愚者として描かれる。

これは、例えば、桶狭間の勝者信長を上げるべく今川義元を愚者に下げる、大阪の陣の勝者家康を上げるべく豊臣秀頼を愚者に下げる等々、枚挙に暇がない。なお、近年、義元にせよ秀頼にせよ、その器量はとみに見直されている。

同じ構図が、後北条氏も正に当てはまると思うのである。

理由はそれだけでなく、もうひとつあると思っている。

小田原城陥落後、秀吉の命により、家康が関東に転封され、江戸を本拠とした。が、関東は、早雲公以来五代、70年以上にわたり後北条氏が支配していた地。

後北条氏への領民の信頼は厚く、領民にすれば、家康は完全に外様であった。
家康とすれば、関東の領民の信頼獲得の策を要したはずである。

この局面では、家康が、後北条氏を愚者とするのは、失政に繋がる。後北条氏を信頼する領民の反発を買うおそれがあるからである。

後北条氏を受け継ぎつつ、それを上回ることにより、後北条氏よりも家康がよいというように威光を高めていくのがよい。

現に、家康は、関東(少なくとも相模の国)の神社ほとんどに積極的に寄進をするなどした(後北条時代における小田原城の鬼門守護を担っていた二宮「川匂神社」への寄進は端的な一例であろう)。
それだけでなく、関東武士の祖である頼朝にあやかった。これは注目点である。頼朝を再評価し、自身を頼朝に重ね、その威光を利用したのである(地域的に頼朝と家康の伝説は多々残るのに、後北条氏の伝説は不思議にもすっぽり抜けた如く残っていない)。

こういった地道な政策が進めば進むほど、頼朝と家康が強調され、対して、後北条氏は、漸次薄れていくことになったように思う。

以上、ふたつの大きな理由により、後北条氏は地味になってしまったと考える。

ただし、まだまだ調査検討熟慮が必要な問題である。

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by ofuna-law | 2017-05-15 08:30 | 地域の出来事 歴史 研究等
大岡裁きで有名な大岡忠相(越前)の菩提寺は、湘南内「茅ヶ崎市」の北部にある(浄見寺)。

大岡裁きの例は、色々あれど、解釈に一考を要するのが、次のもの。

どちらが本当の母かの争い。大岡越前の前で、2人の争う女が、子の手を引っ張る。痛がる子を見て、片方の女が手を離す。

大岡越前は、手を離した女を本当の親とした。
根拠は、本当の親だからこそ、痛がる子を見て、手を離したのであり、愛あればの証だと。

しかし、これには違う見方も存する。

本当の親ならば、偽者に渡してはならないと、子が泣いても心を鬼にして引っ張るのではないか。また、手を離した女も、執着が弱い、あるいは自分が偽者だから、鬼の形相の相手に根負けして、離さざるを得なかったのではないか。

近現代の裁判では、このような疑義をなくすために、証拠をもって勝敗を決め、証拠の中でも、客観的証拠を重視する(主観的証拠とは、供述のこと。嘘や誤認の余地が多くなる)。これを、証拠裁判主義という。

なお、上記例には、裏話があるといわれる。

大岡越前は、引っ張り合いだけで決めたのではない。裁きの前に、捜査を入れ証拠を掴んでおり、心証はもう事前に決まっていたというのである。
その上で、引っ張り合いをさせた。

結果的に、離した女を勝たせたが、もし、その女が離さなかったら、偽者許さじの親心を認定し、結局その女を勝たせようと考えていたというのである。

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by ofuna-law | 2017-05-01 00:02 | 地域の出来事 歴史 研究等
弊所平塚の支所は,八重咲町にある。

強引に繋げるが,食用の「八重桜」の産地が秦野市である。塩漬けにして食する。
全国シェア7割を誇る日本一の産地が神奈川県にあるのである。

ソメイヨシノが散った後,満開を迎えるのが八重桜。先週辺り正に見頃で,秦野市における収穫もピーク。

たまたま林道ドライブの途中に通過したが,緑色(自然)と黄色(タンポポや菜の花)の世界に,八重桜のピンクが差し色になる牧歌的な風景が美しく,八重桜畑で花がどんどん摘まれていた。
ただ,高齢化した農家(摘み手)の後継不足が悩みだそうだ。神奈川新聞の記事になっていた。

これも強引な余談であるが,秦野市の車のナンバーは,湘南ナンバーである。秦野市は,平塚市の北西部に位置し,海(相模湾)にも,相模川にも,接していない(湘南の「湘」とは,「相にさんずい」ゆえに,語源的に,相模川や相模湾との関係は密接不可分と考えられる)。

湘南の現在の中心にあたる藤沢及び茅ヶ崎から特に,「秦野は湘南ではない」と揶揄されるのであるが,「湘南ではない」と言われることでは同じの平塚からすれば,「そんな了見の狭いこと言わず,この辺一帯みんな湘南でいいじゃないか」と思う(叩かれないように小声でしか言えないけど)。

湘南は,地域的に何と言っても「寛容」。その原点に立ち戻れば,それで何ら問題ないのである。

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by ofuna-law | 2017-04-25 10:05 | 地域の出来事 歴史 研究等
江戸時代に大流行した大山詣。

先日テレビ番組で初めて知ったことなどを合わせて書いてみます。

1246mの山全体が山岳信仰の対象。なお、標高に由来し、大山街道を国道246号にした(下3桁が同じ)。が、のちの精緻な計測で現在は1252mと訂正されている。

古来、雨を降らす神(大山の別名が、雨降らし山)として信仰を集めた。現に、平塚事務所の窓から正面遠くに鎮座するが、山頂までよく見える日は翌日晴れることが多いです。

元は天台宗。大山寺(明治の神道国教化により大山阿夫利神社)。現在は、大山寺と大山阿夫利神社とが両立している。

修験者が集まり、戦国時代は武装化し僧兵がいた。
北条早雲は、それらを抱え、小田原城の支城山中城(静岡県三島市)を守らせた。山中城は、のちの秀吉の小田原攻めで滅ぼされる。多くの僧兵が殺されたという。

関東を与えられた家康は、大山の僧兵を警戒した。
そこで慶長年間、天台宗を真言宗に改宗させ、僧兵(僧)たちを山から下ろした。

その僧らが山麓で御師(先導師)となった。
御師といえば、伊勢神宮や出雲大社が有名。いわばツアーコンダクターとして、参詣客を営業し、連れてきて、世話をする。

その御師の営業力と江戸から近い立地などから、大山詣は大流行した。
講とよばれる参詣団体や、大山街道(大山道)とよばれる参詣道が整備されることになる。

大山詣とセットとされたのが江の島詣(神奈川県藤沢市)。

大山からは相模湾(湘南)が展望でき、江の島が見える。
山に来たら次は海ではなかろうか。

一説には、大山は男の神(大山祇神。かつては石尊大権現)。これと女の神(江島神社は弁財天。日本三大弁財天のひとつ)とを同時に詣でること、これが御師のヒット企画ツアーだったという。

江戸時代、参詣客の96%が男性というデータがあるそうだ。女人禁制や男尊女卑が関係しているのだとも思う。
大山と江の島の間には、藤沢宿がある。歓楽街がある。
精進落としのついでに、藤沢宿で歓楽する。これの点が96%を占める男性参詣客に人気だったのではないか。

藤沢市城南には、大山の「一の鳥居」がある。
謎なのが、小田急の伊勢原駅近くにも「一の鳥居」があること。

仮説ではあるが、伊勢原の一の鳥居は、昭和に伊勢原駅ができ、これを利用する参詣者のためにできたものではないか。
あるいは、大山道は、大山を終点として、放射状に広がっているから、ルートごとに始点付近に一の鳥居があっておかしくないということである。

なお、二の鳥居からは、山麓近くに位置し、ひとつずつしかない。

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by ofuna-law | 2017-02-14 12:50 | 地域の出来事 歴史 研究等

辻堂駅開業100周年

辻堂駅は、1916(大正5)12.1に開業し、今年100周年を迎えた。
地元住民が資金と用地を提供招致した住民誓願駅という特徴がある。

100周年を機に、発車メロディーが地元ゆかりの「浜辺の歌」になった。

1872(明治5)10.14に新橋~旧横浜間で鉄道が開通。
それが東海道本線として西に延び、15年後の1887(明治20)7.11に国府津駅まできた。このとき、戸塚駅、藤沢駅、平塚駅、大磯駅が同時開業。いわゆる「湘南電車」だ。

ちなみにその後、
1888(明治21)11.1大船駅開業。
1898(明治31)6.15茅ヶ崎駅開業。
1902(明治35)4.15二宮駅開業。
辻堂駅はこの後の開業になる。

国府津から西は、1920(大正9)10.21に小田原駅が開業。
このとき、鴨宮駅の前身の酒匂川信号所が開設され、1923(大正12)6.1に駅に昇格し鴨宮駅開業となった。

現在、大船~藤沢の中間に新駅開業のプロジェクトもあると聞く。

発車メロディーにつき、湘南電車では、今回の辻堂「浜辺の歌」のほか、茅ヶ崎は「希望の轍」、平塚は「たなばたさま」、小田原は「お猿のかごや」と、地域色豊か。

なお、二宮駅は菜の花の時期限定で「朧月夜」になる。大磯駅では「われは海の子」へとの動きがある。

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by ofuna-law | 2016-12-01 00:00 | 地域の出来事 歴史 研究等

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