大船藤沢辻堂平塚の地名由来 2014.9記事改訂
結論として、一貫した共通点が見えた。
すなわち、全て湘南地域にあるが、地形的に海(相模湾)に面した土地ということが、地名由来に大きく関わっている点。
それは、遥か昔の湘南の海岸線が、いまよりもずっと山よりで、湘南の東西を走る東海道線の南手前くらいまで海岸線だったことも関係する。
海岸線が山よりだった分、砂浜、砂丘、海へと流れる川、沢、その周囲の湿地など、この地域は、水地帯的な土地であったようだ。
まず、大船の由来。
ここは、まさに昔は、湿地帯の中に、丘が点在する土地であった。
それは、大きな船が入れるほどのものだったとのこと。この大きな船から「大船」となった。
これに似た説が、粟を積んだ船が出入りし、そこから「粟船」となり、それが「大船」に転じたという説。ちなみに、大船の鎌倉よりに常楽寺というお寺があるが、その山号を粟船山という。
これらの説自体、この地域が海岸から近い水地帯であったことを示す。
なお、丘も多いことに着目し、その丘の形状が船に見えたとして、大船という説もある。ただ、水なくして船はないから、やはり水地帯と切り離せない。
余談だが、大船には、屋号などに「田園」の表記が非常に多い。大船事務所の1階は田園印刷所だ。では、大船には田園という住居表示はないのに、なぜ「田園」なのか。
それは、昔、まちづくり策として、世田谷の田園調布を目指した「大船田園調布計画」というものがあった(駅を中心に放射状・同心円状に道を配置し、街と駅との動線を合理的に配置する)ことから来ている。実現はしなかった。ただ、田園という表記は多く残ったと。
この計画が実現していたらを想像するだけで楽しい。そして、残念である。
次に藤沢。
藤の木が多かったという説がまことしやかにいわれるが、これは最近になっていわれるようになった俗説。
また、藤沢姓の有力武士の館があったことから、藤沢となったともいわれる。だが、その有力武士が館を建てたときには、もう既に藤沢という地名があり、その武士は土地名を名乗ったもの。由来とは言い難い。
最も妥当とされるのが、「淵沢」が転じて「藤沢」となったという説。
すなわち、やはり藤沢も水地帯であり、淵や沢が多い土地で、そのために、淵沢と呼ばれるようになった。これが、藤沢となったと。
訛り言葉として変化したか、あるいは、淵よりは藤のほうが地名として相応しいとされたのではないか。
ちなみに、藤沢駅北口のマックやファミマがある付近は、字を「横須賀」という。
この須賀とは、後に詳述するが、神奈川県内では、横須賀と同じだ。
もともと「スカ」とは、海に沿った高地、砂丘、砂地という意味。横須賀は、横に砂丘や海岸がある土地という意味といわれる。
藤沢駅北口直近に「横須賀」という字があるのは、昔はここが海岸線に近く、砂丘や海岸があり、その横に集落があったと考えて自然だ。
次に辻堂。
辻堂もやはり水地帯であった。たとえば、「浜見山」は、昔は砂丘。浜が砂丘の上から広く見通せたという。
「柳島」は本当に島だった。後に陸地化した。
その他、「南湖」なども水に関連する。おそらくではあるが、湖の南の土地、逆に、湖が南にある土地というのが由来であろう。
そもそも、辻堂は、もともと「八松ヶ原」と呼ばれていた。砂浜に八本の松があったことからきている。
砂浜の八本の松という意味では、八松ヶ原という地名も、海が関係している。
それが辻堂に転じたのだが、この名は水関連からはずれる。ちょっと残念。
辻堂の由来は、漢字を見ると推理できる。「辻」と「堂」。
現在はもう僅かしか遺稿が残っていないが、辻堂には、鎌倉街道の十字路があった。十字路とは辻。そして、その十字路にお寺があった。お寺とは堂。
問題は、その場所。
辻堂には現在3つの寺がある(昔はもう1つあったとのこと)が、この中でも、「南の寺」と呼ばれる宝泉寺が、その堂であろう。
それは、鎌倉街道が直近を走っていた点だ。これは動かしがたい事実。
また、地元ではこの宝泉寺を中心とした東西南北が、それぞれ東町、西町、南町、北町といわれている点。
あと、これも私見であるが、前述のように、辻堂と呼ばれる前は、この地域は八松ヶ原と呼ばれていた点。この八松という地名は、現在の住居表示を探す限り見当たず、八松という表記のみ、八松小学校という小学校名として残る。この八松小学校が、宝泉寺のすぐそばだ。
結論として、辻堂は、この宝泉寺(堂)と鎌倉街道の十字路(辻)が由来と考えるのが妥当だろう。
そして、鎌倉街道といえば頼朝であり、その影響(湘南地域における頼朝の伝説や威光は調べれば調べるほど深い)や、地名として「八松ヶ原」は長いから、シンプルに「辻堂」に転じたと考えてよいと思う。
最後に平塚。
これも諸説が割れているが、平塚の「塚」は、「スカ」が「ツカ」に変化したのではないかという考えが有力だ。昔の人がスカをツカと訛っても、不思議ではない(今も湘南には「だべ」「じゃん」など特有の訛りが残る)。
「スカ」とは、前述のとおり、海に沿った高地、砂丘、砂地などの意味がある。
平塚には、馬入川(相模川)の河口に、「須賀港」という港がある。いまでこそ、海釣りの港としての知名度くらいであるが、近世から大正まで(鉄道や自動車が主流になる前)は、ここが水運の地として栄華を極め、平塚の中心が須賀港であったといってよかった。
全国の回船が須賀港に集まり、高瀬舟が相模川を遡上し、厚木、相模原、八王子、果ては山梨県の上野原方面へと物資を運んでいた。
なお、この点に関しては、相模川を挟んで真向いある茅ヶ崎市の「柳島」にも同様の港があり、須賀港と熾烈な利権争いをしていた。当時の訴状等古文書が現存する。
この須賀港自体、須賀=「スカ」としていまも港名として残り、周辺も須賀地区と呼ばれ続けている。
まさに海沿いであり、砂浜がある土地、港及びその周辺地区にほかならない。
では、平塚の「平」とは?
地名としての「ヒラ」は、斜面を表す。すなわち、平は、丘ということ。
この丘というのも、私見では、普通の土の丘ではなく、砂丘を意味すると思う。
いま、平塚の南側は、基本的に坂も丘もない真っ平らな地域。
もし、ヒラが土の丘であったなら、時代とともに、簡単に平らになるだろうか。
一方で、もし、砂丘であったなら、時代とともに、平らになりやすい。
前述の辻堂の「浜見山」も、海が見渡せた砂丘であったとされるが、いまは砂丘は影も形もない平地だ。平塚市の南側相模川近くに「夕陽ヶ丘」、それよりも西方に「龍城ヶ丘」「黒部丘」など「丘」のつく地名があるが、いずれも既に平地であり丘ではない。
よって、「ヒラツカ」という呼び方そのものも平塚の地形、すなわち、砂浜、砂丘、ひいては、海を由来しているといえよう。
最後に近時思う私見を付言する。
歌川広重の東海道五十三次浮世絵「平塚」は、湿地帯の中の道を渡る旅人の背後に高麗山(湘南平)がそびえる構図となっている。これぞ広重も認めた平塚を代表する地形といえる。
この湘南平を「ヒラ」(丘)、その麓の東方に広大な「スカ」(砂浜や海沿いの湿地)が広がると見立て、「平塚」と呼ばれたというのもあり得なくもないのではないか。
なお、東海道線に乗ると、平塚駅や下り大磯方面発車後に、この構図と同じ風景が今も広がる(ただし、湿地帯は陸地化・市街化している)ので、是非通過の際は着目していただきたいと思う。
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