大船法律事務所 辻堂法律事務所 平塚八重咲町法律事務所の某弁護士の述懐

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湘南に3つ ―大船(鎌倉市)・ 辻堂(藤沢市・茅ヶ崎市)・平塚八重咲町―法律事務所を置く 弁護士法人プロフェッションの いち弁護士が 思いや出来事を時々つづるブログ

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七夕研究

1 日本三大七夕祭り

「日本三大七夕祭り」は、まず第1と第2は確定していて、仙台・平塚。
第3には、争いがあり、愛知県安城市と愛知県一宮市が、それぞれ主張している。

ただ、近時、安城市は、その主張を「願いごと日本一祭り」に変更した。弱気とも思える一方、日本三大七夕にこだわるよりも、日本一にこだわったのであろう。もっとも、願いごと日本一祭りという主張をしていることそのものが、市民はもとより全国に周知されておらず、現在のところ、その目論見は成功していない。。

第3を、安城説とするか、一宮説にするかについては、一宮説とすべきである。
理由は、上記のとおり、日本三大の主張を変更した安城よりも、安城よりも分が悪かった一宮が、自ら日本三大にこだわりつづける、その心意気を評価すべきこと、また、それに、後述する由来(なぜ、一宮にて七夕祭りが始まったのか)の説得力である。

2 関東三大七夕祭り

「関東三大七夕祭り」というくくりもある。平塚、埼玉県狭山市(入間川)、千葉県茂原市である。

ただ、平塚は、自らは全くこの呼び方を主張しない。
日本三大に数えられる以上、それよりも小さい関東三大というくくりは、平塚にとって不要だからであろう。
平塚の並々ならぬプライドが見て取れる。。

3 歴史

もともと、七夕を祝うようになる風習は、江戸中期とされる(諸説あり)。現在も、家や地域で、笹を立て短冊を飾り願掛けをして祝う。

それが大規模な「祭り」とされたのが、仙台で、江戸中期からのようである。ただ、風習が徐々に大きくなり、祭りとなるのが通常の流れであることからすると、風習が江戸中期からとすると、同時期である江戸中期の仙台の七夕祭りの規模は、小さかったと推測される。

仙台は、その起源を、藩主伊達正宗公が、子女の手芸を上達を願うため、強く七夕を祭ったことに由来するとし、その時期を、江戸初期としている。

正宗公が子女の手芸を上達を願ったことや、正宗公が江戸初期に活躍していたことは正しい史実としても、そのころ(江戸初期)から強く七夕を祭ったというのは、七夕が祝われるようのがそもそも江戸中期だとすると、飛躍が否めない。
むしろ、昭和以降の仙台が、日本一の七夕祭りであるという主張を強く根拠づける後付けの主張とすべきではなかろうか。。

なお、七夕を江戸中期から祝うようになったという起源を裏付ける資料まで当たっていないので、その起源自体が揺らぐならば、江戸初期に仙台が七夕祭りを始めたという事実は、その正当性が強まるので注意が必要である。

さて、なぜ七夕が「子女の手芸の上達を願う」なのかというと、物語上、彦星と織姫が、願う=「願掛け」となり、短冊を書くは、短歌を筆で書くことで、短歌は、学問を意味し、筆で書くは、習字と転じていること。また、織姫の「織り」が、針仕事・機織り・染め織りを意味すること。それゆえ、これらの上達を願う祭りに繋がってくる。もちろん、祭りであるから、豊作豊漁を願い、それに感謝することも含まれてくる。

話を戻すと、仙台の七夕祭りは、江戸中期には始まっていた。そして、その起源は、伊達正宗公にある。

では他方、仙台以外の、平塚・安城・一宮・狭山・茂原での始まりはいつか。

平塚は、昭和25年
安城は、昭和29年
一宮は、昭和31年
狭山は、江戸中期
茂原は、昭和30年

である。
狭山の歴史は、仙台と同じころからであった。
他方、仙台・狭山以外の平塚・安城・一宮・茂原は、戦後である。戦後に開始したのは、いずれも、戦後の復興祭という意味合いが非常に強い。すなわち、地域振興や、周辺地域からの来客を呼び込む意味合いである。

ただ、「戦後の復興祭」は全国各地で行われたのであり、なぜ「七夕」なのかという意味は疑問である。この点に関しては、七夕の上記意味の側面からアプローチしてみる。

織姫の「織り」からは、繊維・紡績へと意味を転化できる。

この点で、まず、平塚には、関東紡績と相模紡績という紡績工場が存在していた。
この点で、七夕との強いつながりを見い出せる。

同じ意味では一宮が該当する。一宮は、昔から繊維・紡績で栄えた。

そもそも、一宮とは、尾張国一宮を意味し、宮とは神社であって、「真清田神社」のこと。
この神社の祭神の、母神が、「萬幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)」であり、機織りの神。
このことからも、一宮が昔から繊維・紡績で栄えたことが認められる。そして、現在も、繊維・紡績業は行われている。

それゆえの一宮七夕なのである。

なお、上記のとおり、日本三大七夕祭りの第3について、一宮説(安城説を否定)を支持するのは、「織り」と「真清田神社」という説得力を評価したゆえである。

一方、安城と茂原については、現状、七夕の意味からのアプローチは困難であった(なお、安城には、倉敷紡績安城工場という紡績工場があったが。。)。
現時点では、この二つの地で、戦後復興のためになぜ七夕か、という疑問には、「偶々」という答えが相当のようである。。もちろん、学問・習字・針仕事・手習い・豊作豊漁祈願等の意味があり、七夕を祭るという意義は極めて重要である。

4 開催時期・規模

日本三大・関東三大といわれるのは、上記由来や歴史に加えて、規模という要素は欠かせないであろう。

加えて、時期も列記し、それぞれの祭りを比較してみる。
なお、七夕が7月7日であることは公知の事実である。もっとも、日本には、旧暦と新暦がある。旧暦の7月7日は、新暦の7月の下旬から8月上旬とされる(太陽の位置で換算するようで、幅があるらしい)。

仙台 204万人/3日間(日換算68万人) 8月8日ころ 3日間開催
平塚 170万人/3日間(日換算56万人) 7月7日ころ 3日間開催
安城 102万人/3日間(日換算34万人) 8月8日ころ 3日間開催
一宮 130万人/4日間(日換算32万人) 7月下旬ころ 4日間開催
狭山  43万人/2日間(日換算21万人) 8月8日ころ 2日間開催
茂原  84万人/3日間(日換算28万人) 7月下旬ころ 3日間開催

このデータ比較からすると、日本三大七夕の第3について、安城と一宮がしのぎを削っているのがよく分かる。さながら、餃子消費量で宇都宮と浜松が競っているのと同じ構図といえよう。。

ちなみに、平塚のみ新暦を採用している点が耳目に値する。

新暦を採用した場合、伝統性や歴史性から離れるという難点が否めないが、開催開始時の平塚市長は、新暦にすると、「飾りを旧暦開催の七夕祭りの地へ譲渡できる」と話していたという。一見合理的である(ただし、この点については、最期に余談で述べる)。そして、この合理性から推理すると、新暦開催は、旧暦開催の七夕祭りと時期がかぶらず、来客が見込めると考えたのではなかろうか。

5 余談

湘南では、まことしやかに「平塚七夕祭りの飾りが、仙台七夕祭りで再利用されている」と言われている。

このことを、仙台の方々に話すのは危険である。猛烈に否定され、友好が途絶えかねない(実際、そのような体験をしたことがある。人格否定に近かった。。)。

また、仙台同様、旧暦開催の安城・一宮・狭山・茂原の方々に、「平塚の七夕祭りの飾りが再利用されている」と話そうものなら、仙台の方々と同様、断固否定され、友好が途絶えかねない。

それは至極当然である。
地元の祭りなのだから。
飾りは、地元市民や地元企業が、願を掛け、祝金を掛けて、創意工夫し独自の飾りが作られるはずだからである。

平塚七夕祭り開始当時の平塚市長の「譲渡」発言は、一見合理的であったが、実現しなかったと考えられる。

by ofuna-law | 2015-03-30 12:40 | 地域の研究等

平塚の不思議を語る

1 平塚の河川
  
平塚市には、東側の茅ヶ崎市の境に「相模川」、西側の大磯町の境に「花水川」が流れる。

そのほかに「馬入川」「金目川」という河川も少々知られる河川だろう。

この4つの河川の区別ができていない方が多いのではないか。というか、私が混乱していたので、整理した。

まず、「相模川」と「馬入川」は、同じ川である。相模川の下流域を、特に「馬入川」という。
国道1号線(東海道)の橋で、河口から数えて2番目(なお、1番目は湘南トラスト大橋)が、馬入橋。

この馬入橋以南は、相模川を馬入川と呼ぶといっていい。名前の由来は、建久九年(1198年)の冬、馬入橋架橋時に、頼朝が馬で渡り初めをした際、源頼朝が馬で川に落ちたからと言い伝えられている。ゆえの馬入橋と馬入川。ちなみに、頼朝は、この落水が原因で、病気(肺炎か?)になり、亡くなったという。
なお、そのころの川筋は、現在よりも約一キロメートル手前(東の茅ヶ崎側)の小出川畔を流れていた。関東大震災で旧相模川の橋脚が隆起し判明。この橋脚は国の史跡となっている。

次に、「花水川」と「金目川」は(も)、同じ川である。これらは、北方の秦野市方面から南の相模湾へ流れるが、平塚市内で「渋田川」と合流する。この合流地点の以北が「金目川」、以南が「花水川」だ。

かつては,金目川と渋田川の合流地点から下流も金目川と呼ばれていたらしいが、その下流の桜を,頼朝(ここでも頼朝。。)が桜見にきた。しかし、花を見ずに帰った。ゆえに、花水川となったと言い伝えられている。ここからは推論だが、花を見ずは、花不見(漢文)または花見不になりそうだが、「不」のマイナス印象ゆえ,避けられ,「水」の文字が当て字にされたのではないか。

2 平塚市南部の道路区画と町名の不思議

さて、平塚市の東海道線よりも南側は、碁盤目に東西南北に道路が整備されている。
平塚駅南口から海へと繋がるメインストリート(なぎさプロムナード)は、幅も広く、歩道も整備され、一見の価値がある(駅から徒歩2~3分には、平塚で代々の国会議員、河野邸もある)。

もっとも、その碁盤目に整備された道路に、なぜだか北西から南東へと斜めに入る道路がある。

気をつけないと、碁盤目という前提で、東に向かっているつもりが、その道路が斜めに入る道で、いつの間にか、東ではなく南東へと進んでしまう。

道路の碁盤目整備は、平塚大空襲に関係がある。平塚大空襲により、焼け野原になった南部の新たなまちづくりで、道路が碁盤目に整備された。

にもかかわらず、なぜ斜めに入る道路を入れたかというと、馬入川の河口にある須賀港(現在の平塚港あるいは平塚新港)の存在したからだ。

この港は、江戸時代やそれ以前に、海運で非常に栄えた。海から廻船が集中し、高瀬船で相模川を北上し、厚木や相模原方面へと物資を運んでいたのである(現在の中心街は平塚駅北口付近だが、昔は須賀港付近であった。物資が集まっていたから当然といえる)。

その須賀港に集まる物資は、須賀港から見て、北西に位置する平塚中心地市内(江戸時代、徳川家の直轄領であり、徳川家康が鷹狩りに来て、中原を宿地にしていた。「中原御殿」という。また、東海道の平塚宿があった)に、陸送された。

その陸送道路は、繁栄する須賀港から、中原・平塚宿を直結する重要な道路で、ここが、平塚大空襲後の道路区画整理の際も、しっかりと残されたのである。

平塚市の南側は、町の地名の名付け・読み名が綺麗なのも特徴である。例えば、八重咲町(当法律事務所があるから一番先に書いた。。)、松風町、菫平(すみれだいら)、袖ヶ浜など。

これらの町名は、平塚大空襲により、南側が焼け野原になったことを契機に、復興の趣旨が込められたからだと推測している。

3 湘南ベルマーレの不思議

湘南ベルマーレは、ホームグラウンドが平塚市にある。昔は、ホームタウンも平塚で、チーム名がベルマーレ平塚だった。

全国的に高くはない平塚市の知名度アップのためには、ベルマーレ平塚のままがよかったはず。例えば、鹿嶋アントラーズにせよ、浦和レッズにせよ、限局された市名を冠としているのだから。
中田英寿や岩本輝雄ら日本代表を輩出したクラブという歴史を考えてもだ。

ただ、資金力がなくて、周辺自治体も巻き込み改名したとのこと。仕方ないが、湘南というと、茅ヶ崎、江ノ島、鎌倉あたりが思い出されるから、平塚色が極めて薄まった気がして惜しい。
でも、ホームでの試合日は、市内にサポーターがゾロついていて、盛り上がっている。ホームグラウンドがあるからならではの風景だ。
by ofuna-law | 2015-03-29 09:42 | 地域の出来事 歴史 研究等

湘南に3つ ―大船(鎌倉市)・ 辻堂(藤沢市・茅ヶ崎市)・平塚八重咲町―法律事務所を置く 弁護士法人プロフェッションの いち弁護士が 思いや出来事を時々つづるブログ


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