湘南|大船と辻堂(藤沢・茅ヶ崎)と平塚|3つ法律事務所がある弁護士法人代表の「弁」:地域の出来事 歴史 研究等
2023-01-06T18:08:00+09:00
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「弁護士法人プロフェッション」代表が時々弁ずるブログ|大船駅(鎌倉市)・辻堂駅(藤沢市・茅ヶ崎市)・平塚駅各3分|夜間休日相談あり
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白笹稲荷神社(神奈川県秦野市)
http://ofunalaw.exblog.jp/32861873/
2023-01-06T17:36:00+09:00
2023-01-06T18:08:00+09:00
2023-01-06T17:59:51+09:00
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地域の出来事 歴史 研究等
(調べたら、関東三大稲荷の他ふたつは、茨城県笠間市の笠間稲荷、東京都北区の装束稲荷)。
白笹稲荷神社の本殿の屋根には、沢山の鳩の飾りがあります。
神社の方に由来を聞くと「おそらく源氏の八幡信仰と関係があるのではないか」とのこと。
鶴岡八幡宮は、確かに、鳩。鳩サブレーのお土産も有名です。
ここからは、全くの推論ですが、昔、源氏のお偉い方が寄進をして(例えば、平塚八幡宮その他神奈川県の多数の寺社に、北条政子の安産のために寄進がなされているなど)、その証跡が、この本殿屋根の沢山の鳩の飾りなのではないかな?と想像しました。
想像してブログに書くのは、自由ですよね。
例えば、専門の学者ですと、エビデンスなしに書けないと思いますが。
ところで、湘南とは、どこからどこまでかという問題があります。
特に神奈川県民ですと、ひとりひとりが持論を持つような話です。
さて秦野市は湘南でしょうか?
この点、県民の間では、丹沢を有する内陸地であり海に面していない海なし市であるなど、湘南ではないという説が有力だと思います。
私も昔は秦野市は、湘南ではない説でした。
しかし、秦野市は、湘南ナンバー地域なのです。
そのため、以前に考えを改め、私は、湘南ナンバー地域である秦野市(足柄上郡ほかも含め)は、湘南だと考えるようになっております。
というか、最近知ったのですが、秦野市は、元々、中郡であった(現在は大磯町と二宮町。海沿い。しかも大磯町は湘南発祥の地)とのこと。
この由来も、自説の根拠のひとつです。
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平塚の不思議を語る 2015年3月の記事改訂
http://ofunalaw.exblog.jp/30108282/
2019-02-19T07:08:00+09:00
2019-02-19T08:38:35+09:00
2019-02-19T07:08:47+09:00
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地域の出来事 歴史 研究等
平塚市には、東側の茅ヶ崎市との境に「相模川」、西側の大磯町との境に「花水川」が流れる。
そのほかに「馬入川」「金目川」という河川も、国道1号や134号を走ると目にするので、知られる河川だろう。
この4つの河川の区別ができていない方が多いのではないか。というか、私が混乱していたので整理する。
ア 「相模川」と「馬入川」は、同じ川である。相模川の下流域を、特に「馬入川」という。
国道1号(東海道)の橋で、河口(海側)から数えて2番目に架かるのが馬入橋(なお、1番目は湘南トラスト大橋)。
この馬入橋以南の相模川下流域を「馬入川」と呼ぶと言ってよい。
「馬入」の名前の由来は、建久九年(1198年)冬、馬入橋架橋時に、渡り初めをした源頼朝が馬で川に落ちたからと伝承されている。ゆえの馬入橋と馬入川。頼朝は、この落水が原因で病気(肺炎か?)になり亡くなったも言われる。
なお、そのころの川筋は、現在よりも約一キロメートル東の茅ヶ崎側の小出川畔を流れていた。関東大震災で旧相模川の橋脚が隆起し判明。この橋脚は国の史跡となっている。新湘南バイパス茅ヶ崎西インターやニトリ茅ヶ崎店の直近に存在する。一見の価値あり。
イ 「花水川」と「金目川」は(も)、同じ川である。これらは、北方の秦野市方面から南の相模湾へ流れるが、平塚市内で「渋田川」と合流する。この合流地点の以北が「金目川」、以南が「花水川」だ。
かつては金目川と渋田川の合流地点から下流も金目川と呼ばれていたらしいが、その下流の桜を、源頼朝(ここでも頼朝)が桜見にきた。しかし、花を見ずに帰った。ゆえに、花水川となったと伝承されている。
ここからは推論。花を見ずは、漢文では花不見(花見不)になりそうであるが、「不」はマイナス印象ゆえ避けられ,河川名でもあるので「水」が当て字にされたのではなかろうか。
2 平塚市南部の碁盤目状道路区画と綺麗な町名
平塚市の東海道線よりも南側は、碁盤目に東西南北に道路が整備されている。
平塚駅南口から海へと繋がるメインストリート(なぎさプロムナード)は、幅も広く、歩道も整備された大通りである(駅から徒歩2~3分には、平塚で代々の国会議員、河野邸もある)。
道路の碁盤目整備は、平塚大空襲に関係がある。平塚大空襲により、焼け野原になった南部の新たなまちづくりで、道路が碁盤目に整備された。
ア 不思議なのは、その碁盤目状道路区画の中に、なぜだか北西から南東へと斜めに入る道路が1本あるのと、南北に走るくねくねした道路が1本あることである。
前者の斜め道路は、気をつけないと、碁盤目という前提で東に向かっているつもりが、その道路に入ってしまい、いつの間にか東ではなく南東へと進んでしまう。
碁盤目状の中に、なぜ斜めに入る道路があるかという謎の答えは、馬入川の河口にある須賀港(現在の平塚港あるいは平塚新港)が存在したから。
この須賀港は、江戸時代やそれ以前に、海運で非常に栄えた。海から廻船が集中し、高瀬船で相模川を北上し、厚木、相模原、山梨上野原方面へと物資を運んでいたのである(現在の中心街は平塚駅北口付近だが、昔は物資が集まっていたから須賀港付近であった)。
その須賀港に集まる物資は、須賀港から見て、北西に位置する平塚中心地市内(江戸時代、徳川家の直轄領であり、徳川家康が鷹狩りに来て、中原を宿地にしていた。「中原御殿」という。また、東海道の平塚宿があった)に、陸送された。
その陸送道路の歴史や重要性から、平塚大空襲後の道路区画整理の際も、しっかり残されたと考えられる。
後者の南北に走る道路は、海沿いの国道134号の「扇の松入口」交差点を起点とする。
入ってすぐ、立派な扇形の枝振りをした黒松がある。
この道が残されたのは、この「扇の松」が平塚大空襲でも焼けなかったことが関係していると思う。
また、この道は北へ延長していくと平塚八幡宮に繋がる(途中に東西にJR東海道線と国道一号線が横切るが)。つまり、平塚八幡宮の参詣道であった。
やはり、道路の歴史や重要性から、道路区画整理の際も残されたと考えられる。
イ 平塚市の南側は、町の地名の名付け・読み名が綺麗なのも特徴である。例えば、八重咲町(当法律事務所があるから一番先に書く)、松風町、菫平(すみれだいら)、袖ヶ浜、龍城ヶ丘など。
これらの町名は、平塚大空襲により、南側が焼け野原になったことを契機に、復興の趣旨が込められて新しく名付けられたと推測される。
また、名付けられた当時の平塚市長は戸川貞雄氏。作家・小説家であり、いわゆる言葉の専門家。「湘南平」の名付け親でもある。
3 湘南ベルマーレ なぜチーム名に「平塚」がなくなったのか
湘南ベルマーレは、本拠が平塚市にある。
昔は、ホームタウンも平塚で、チーム名がベルマーレ平塚だった。
全国的に高くはない平塚市の知名度アップのためには、ベルマーレ平塚のままがよかったはず。例えば、鹿嶋アントラーズにせよ、浦和レッズにせよ、限局された市名を冠としているのだから。
中田英寿や岩本輝雄ら日本代表を輩出したクラブという歴史を考えてもだ。
ただ、資金力不足で、周辺自治体も巻き込んで改名したとのこと。仕方ないが、湘南というと、茅ヶ崎、江ノ島、鎌倉あたりが思い出されるから、平塚色が極めて薄まった気がして惜しい。
でも、ホームでの試合日は、市内にサポーターがゾロつき盛り上がる。本拠ならではの風景だ。
昨今スタジアムの定員不足の問題で、移転が検討されている。
湘南といえば、現在は藤沢や茅ヶ崎であり、人口が増加し43万人を突破した藤沢市の勢いなどを考えると、移転の危機は極めて高い(平塚市の人口は2019年1月現在25万人。減少傾向だが、市を上げ減少を止めここ数年横ばい推移中)。
ベルマーレ湘南は、平塚市にとって宝である。本拠であることを逃してはならない。
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湘南内の屋台で酒呑むどこ?
http://ofunalaw.exblog.jp/29513821/
2018-05-24T20:38:00+09:00
2018-06-20T00:21:04+09:00
2018-05-24T21:10:36+09:00
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地域の出来事 歴史 研究等
西に寄って、茅ヶ崎駅は、使う頻度が少ないので、もっと知らないが、おそらくないはず。
でも、更に西に寄って相模川を渡ったら、JR平塚駅には、ある。
場所は、西口改札を北側に下り、線路沿いを西に徒歩1-2分、中央地下道の脇に、3台、ある。
ずっとちょっと怖いのもあって立ち寄れなかったのを、勇気を出し(二軒目の酩酊の勢いもあって)はじめての立ち寄り。
レモンサワー1杯とおでんを4品えらんで、千円でした。
そもそも、屋台で呑んだのは、高知だけかもしれない。そこは観光名所。福岡の屋台も観光名所で有名だけど、行けていない。
記憶の片隅にずいぶん昔にどこか遠くの屋台で呑んだ記憶がある。名古屋だったか。
平塚のその屋台の大将(70代かな。呼び名がそれでよいのか、マスターとか、おっちゃんとか、もありうると思ったけども)に聞いたら、この場所で屋台をやる権利は、大将一代限りとのこと。
仕事柄、法律的な権利関係を一瞬考えたが、一瞬でそういうのをやめ、すぐレモンサワーとおでんと、屋台ならではの雰囲気を味わうことにした。
次来るときのために、定休日や営業時間を聞いたら、「雨の日はやらねー」「都合が悪い日はやらねー」「今日はもう閉めようと思ってた」「昨日は遅くまでやったぞ」ですと。
要するに、晴れていて、大将が今日はやろうって思ってそうな日に行けばいいってことですね(かなりむずかしいです)。
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大船藤沢辻堂平塚の地名由来 2014.9記事改訂
http://ofunalaw.exblog.jp/29471226/
2018-05-03T09:47:00+09:00
2018-05-03T21:37:20+09:00
2018-05-03T09:47:15+09:00
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地域の出来事 歴史 研究等
結論として、一貫した共通点が見えた。
すなわち、全て湘南地域にあるが、地形的に海(相模湾)に面した土地ということが、地名由来に大きく関わっている点。
それは、遥か昔の湘南の海岸線が、いまよりもずっと山よりで、湘南の東西を走る東海道線の南手前くらいまで海岸線だったことも関係する。
海岸線が山よりだった分、砂浜、砂丘、海へと流れる川、沢、その周囲の湿地など、この地域は、水地帯的な土地であったようだ。
まず、大船の由来。
ここは、まさに昔は、湿地帯の中に、丘が点在する土地であった。
それは、大きな船が入れるほどのものだったとのこと。この大きな船から「大船」となった。
これに似た説が、粟を積んだ船が出入りし、そこから「粟船」となり、それが「大船」に転じたという説。ちなみに、大船の鎌倉よりに常楽寺というお寺があるが、その山号を粟船山という。
これらの説自体、この地域が海岸から近い水地帯であったことを示す。
なお、丘も多いことに着目し、その丘の形状が船に見えたとして、大船という説もある。ただ、水なくして船はないから、やはり水地帯と切り離せない。
余談だが、大船には、屋号などに「田園」の表記が非常に多い。大船事務所の1階は田園印刷所だ。では、大船には田園という住居表示はないのに、なぜ「田園」なのか。
それは、昔、まちづくり策として、世田谷の田園調布を目指した「大船田園調布計画」というものがあった(駅を中心に放射状・同心円状に道を配置し、街と駅との動線を合理的に配置する)ことから来ている。実現はしなかった。ただ、田園という表記は多く残ったと。
この計画が実現していたらを想像するだけで楽しい。そして、残念である。
次に藤沢。
藤の木が多かったという説がまことしやかにいわれるが、これは最近になっていわれるようになった俗説。
また、藤沢姓の有力武士の館があったことから、藤沢となったともいわれる。だが、その有力武士が館を建てたときには、もう既に藤沢という地名があり、その武士は土地名を名乗ったもの。由来とは言い難い。
最も妥当とされるのが、「淵沢」が転じて「藤沢」となったという説。
すなわち、やはり藤沢も水地帯であり、淵や沢が多い土地で、そのために、淵沢と呼ばれるようになった。これが、藤沢となったと。
訛り言葉として変化したか、あるいは、淵よりは藤のほうが地名として相応しいとされたのではないか。
ちなみに、藤沢駅北口のマックやファミマがある付近は、字を「横須賀」という。
この須賀とは、後に詳述するが、神奈川県内では、横須賀と同じだ。
もともと「スカ」とは、海に沿った高地、砂丘、砂地という意味。横須賀は、横に砂丘や海岸がある土地という意味といわれる。
藤沢駅北口直近に「横須賀」という字があるのは、昔はここが海岸線に近く、砂丘や海岸があり、その横に集落があったと考えて自然だ。
次に辻堂。
辻堂もやはり水地帯であった。たとえば、「浜見山」は、昔は砂丘。浜が砂丘の上から広く見通せたという。
「柳島」は本当に島だった。後に陸地化した。
その他、「南湖」なども水に関連する。おそらくではあるが、湖の南の土地、逆に、湖が南にある土地というのが由来であろう。
そもそも、辻堂は、もともと「八松ヶ原」と呼ばれていた。砂浜に八本の松があったことからきている。
砂浜の八本の松という意味では、八松ヶ原という地名も、海が関係している。
それが辻堂に転じたのだが、この名は水関連からはずれる。ちょっと残念。
辻堂の由来は、漢字を見ると推理できる。「辻」と「堂」。
現在はもう僅かしか遺稿が残っていないが、辻堂には、鎌倉街道の十字路があった。十字路とは辻。そして、その十字路にお寺があった。お寺とは堂。
問題は、その場所。
辻堂には現在3つの寺がある(昔はもう1つあったとのこと)が、この中でも、「南の寺」と呼ばれる宝泉寺が、その堂であろう。
それは、鎌倉街道が直近を走っていた点だ。これは動かしがたい事実。
また、地元ではこの宝泉寺を中心とした東西南北が、それぞれ東町、西町、南町、北町といわれている点。
あと、これも私見であるが、前述のように、辻堂と呼ばれる前は、この地域は八松ヶ原と呼ばれていた点。この八松という地名は、現在の住居表示を探す限り見当たず、八松という表記のみ、八松小学校という小学校名として残る。この八松小学校が、宝泉寺のすぐそばだ。
結論として、辻堂は、この宝泉寺(堂)と鎌倉街道の十字路(辻)が由来と考えるのが妥当だろう。
そして、鎌倉街道といえば頼朝であり、その影響(湘南地域における頼朝の伝説や威光は調べれば調べるほど深い)や、地名として「八松ヶ原」は長いから、シンプルに「辻堂」に転じたと考えてよいと思う。
最後に平塚。
これも諸説が割れているが、平塚の「塚」は、「スカ」が「ツカ」に変化したのではないかという考えが有力だ。昔の人がスカをツカと訛っても、不思議ではない(今も湘南には「だべ」「じゃん」など特有の訛りが残る)。
「スカ」とは、前述のとおり、海に沿った高地、砂丘、砂地などの意味がある。
平塚には、馬入川(相模川)の河口に、「須賀港」という港がある。いまでこそ、海釣りの港としての知名度くらいであるが、近世から大正まで(鉄道や自動車が主流になる前)は、ここが水運の地として栄華を極め、平塚の中心が須賀港であったといってよかった。
全国の回船が須賀港に集まり、高瀬舟が相模川を遡上し、厚木、相模原、八王子、果ては山梨県の上野原方面へと物資を運んでいた。
なお、この点に関しては、相模川を挟んで真向いある茅ヶ崎市の「柳島」にも同様の港があり、須賀港と熾烈な利権争いをしていた。当時の訴状等古文書が現存する。
この須賀港自体、須賀=「スカ」としていまも港名として残り、周辺も須賀地区と呼ばれ続けている。
まさに海沿いであり、砂浜がある土地、港及びその周辺地区にほかならない。
では、平塚の「平」とは?
地名としての「ヒラ」は、斜面を表す。すなわち、平は、丘ということ。
この丘というのも、私見では、普通の土の丘ではなく、砂丘を意味すると思う。
いま、平塚の南側は、基本的に坂も丘もない真っ平らな地域。
もし、ヒラが土の丘であったなら、時代とともに、簡単に平らになるだろうか。
一方で、もし、砂丘であったなら、時代とともに、平らになりやすい。
前述の辻堂の「浜見山」も、海が見渡せた砂丘であったとされるが、いまは砂丘は影も形もない平地だ。平塚市の南側相模川近くに「夕陽ヶ丘」、それよりも西方に「龍城ヶ丘」「黒部丘」など「丘」のつく地名があるが、いずれも既に平地であり丘ではない。
よって、「ヒラツカ」という呼び方そのものも平塚の地形、すなわち、砂浜、砂丘、ひいては、海を由来しているといえよう。
最後に近時思う私見を付言する。
歌川広重の東海道五十三次浮世絵「平塚」は、湿地帯の中の道を渡る旅人の背後に高麗山(湘南平)がそびえる構図となっている。これぞ広重も認めた平塚を代表する地形といえる。
この湘南平を「ヒラ」(丘)、その麓の東方に広大な「スカ」(砂浜や海沿いの湿地)が広がると見立て、「平塚」と呼ばれたというのもあり得なくもないのではないか。
なお、東海道線に乗ると、平塚駅や下り大磯方面発車後に、この構図と同じ風景が今も広がる(ただし、湿地帯は陸地化・市街化している)ので、是非通過の際は着目していただきたいと思う。
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噯(あつかい)「口へんに愛」-戦国時代の司法用語
http://ofunalaw.exblog.jp/29382757/
2017-11-15T22:00:00+09:00
2018-04-26T11:00:42+09:00
2018-03-20T23:12:12+09:00
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地域の出来事 歴史 研究等
口へんに愛と書いて、噯(あつかい) と読みます。
中世では、紛争を調停することを、噯(あつかい) といったとのこと。
宮本昌孝著の「武者始め」という歴史小説で知りました。
この本は、戦国武将の初陣をテーマにしたもの。
冒頭の短編が、伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)の「武者始め」。
駿河今川に仕える新九郎が、当主の戦死により勃発したお家騒動につき、噯(あつかい) をすることに。
噯(あつかい) をする者を、噯手(あつかいて)とか噯人(あつかいにん)といったとも。
問題は、世嗣ぎを、当主の子(幼児)とするか、それとも当主の亡兄の子(成年)とするか。
現代に引き直すと、交渉事ならば弁護士が、調停なら調停委員が、裁判なら裁判官が、それぞれ噯手ないし噯人とかつては呼ばれた立場だったということになります。
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仮説「後北条氏はなぜ地味か」
http://ofunalaw.exblog.jp/26601740/
2017-05-15T08:30:00+09:00
2018-03-16T11:32:29+09:00
2017-04-21T09:52:36+09:00
ofuna-law
地域の出来事 歴史 研究等
後北条氏は、戦国時代における関東の覇者である。初代早雲は下克上の先駆けでもある。
家康も、江戸城、江戸の街づくり、上水整備など、小田原を模した。
にもかかわらず、後北条氏はなぜ地味なのか。
地元に住む筆者が痛感するのだから、その地味感は自然な国民感覚であろう。
私見であるが、理由のひとつは、天下人秀吉に負けたこと。歴史における敗者は、勝者の歴史を華々しく飾る反作用として、殊更愚者として描かれる。
これは、例えば、桶狭間の勝者信長を上げるべく今川義元を愚者に下げる、大阪の陣の勝者家康を上げるべく豊臣秀頼を愚者に下げる等々、枚挙に暇がない。なお、近年、義元にせよ秀頼にせよ、その器量はとみに見直されている。
同じ構図が、後北条氏も正に当てはまると思うのである。
理由はそれだけでなく、もうひとつあると思っている。
小田原城陥落後、秀吉の命により、家康が関東に転封され、江戸を本拠とした。が、関東は、早雲公以来五代、70年以上にわたり後北条氏が支配していた地。
後北条氏への領民の信頼は厚く、領民にすれば、家康は完全に外様であった。
家康とすれば、関東の領民の信頼獲得の策を要したはずである。
この局面では、家康が、後北条氏を愚者とするのは、失政に繋がる。後北条氏を信頼する領民の反発を買うおそれがあるからである。
後北条氏を受け継ぎつつ、それを上回ることにより、後北条氏よりも家康がよいというように威光を高めていくのがよい。
現に、家康は、関東(少なくとも相模の国)の神社ほとんどに積極的に寄進をするなどした(後北条時代における小田原城の鬼門守護を担っていた二宮「川匂神社」への寄進は端的な一例であろう)。
それだけでなく、関東武士の祖である頼朝にあやかった。これは注目点である。頼朝を再評価し、自身を頼朝に重ね、その威光を利用したのである(地域的に頼朝と家康の伝説は多々残るのに、後北条氏の伝説は不思議にもすっぽり抜けた如く残っていない)。
こういった地道な政策が進めば進むほど、頼朝と家康が強調され、対して、後北条氏は、漸次薄れていくことになったように思う。
以上、ふたつの大きな理由により、後北条氏は地味になってしまったと考える。
ただし、まだまだ調査検討熟慮が必要な問題である。
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大岡越前の眠る町「茅ヶ崎」
http://ofunalaw.exblog.jp/26608838/
2017-05-01T00:02:00+09:00
2017-12-27T09:32:05+09:00
2017-04-24T00:38:29+09:00
ofuna-law
地域の出来事 歴史 研究等
大岡裁きの例は、色々あれど、解釈に一考を要するのが、次のもの。
どちらが本当の母かの争い。大岡越前の前で、2人の争う女が、子の手を引っ張る。痛がる子を見て、片方の女が手を離す。
大岡越前は、手を離した女を本当の親とした。
根拠は、本当の親だからこそ、痛がる子を見て、手を離したのであり、愛あればの証だと。
しかし、これには違う見方も存する。
本当の親ならば、偽者に渡してはならないと、子が泣いても心を鬼にして引っ張るのではないか。また、手を離した女も、執着が弱い、あるいは自分が偽者だから、鬼の形相の相手に根負けして、離さざるを得なかったのではないか。
近現代の裁判では、このような疑義をなくすために、証拠をもって勝敗を決め、証拠の中でも、客観的証拠を重視する(主観的証拠とは、供述のこと。嘘や誤認の余地が多くなる)。これを、証拠裁判主義という。
なお、上記例には、裏話があるといわれる。
大岡越前は、引っ張り合いだけで決めたのではない。裁きの前に、捜査を入れ証拠を掴んでおり、心証はもう事前に決まっていたというのである。
その上で、引っ張り合いをさせた。
結果的に、離した女を勝たせたが、もし、その女が離さなかったら、偽者許さじの親心を認定し、結局その女を勝たせようと考えていたというのである。
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日本一の八重桜(食用)の生産地「秦野市」
http://ofunalaw.exblog.jp/26612231/
2017-04-25T10:05:00+09:00
2018-03-09T13:31:18+09:00
2017-04-25T10:05:51+09:00
ofuna-law
地域の出来事 歴史 研究等
強引に繋げるが,食用の「八重桜」の産地が秦野市である。塩漬けにして食する。
全国シェア7割を誇る日本一の産地が神奈川県にあるのである。
ソメイヨシノが散った後,満開を迎えるのが八重桜。先週辺り正に見頃で,秦野市における収穫もピーク。
たまたま林道ドライブの途中に通過したが,緑色(自然)と黄色(タンポポや菜の花)の世界に,八重桜のピンクが差し色になる牧歌的な風景が美しく,八重桜畑で花がどんどん摘まれていた。
ただ,高齢化した農家(摘み手)の後継不足が悩みだそうだ。神奈川新聞の記事になっていた。
これも強引な余談であるが,秦野市の車のナンバーは,湘南ナンバーである。秦野市は,平塚市の北西部に位置し,海(相模湾)にも,相模川にも,接していない(湘南の「湘」とは,「相にさんずい」ゆえに,語源的に,相模川や相模湾との関係は密接不可分と考えられる)。
湘南の現在の中心にあたる藤沢及び茅ヶ崎から特に,「秦野は湘南ではない」と揶揄されるのであるが,「湘南ではない」と言われることでは同じの平塚からすれば,「そんな了見の狭いこと言わず,この辺一帯みんな湘南でいいじゃないか」と思う(叩かれないように小声でしか言えないけど)。
湘南は,地域的に何と言っても「寛容」。その原点に立ち戻れば,それで何ら問題ないのである。
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大山詣(神奈川県伊勢原市)
http://ofunalaw.exblog.jp/28593073/
2017-02-14T12:50:00+09:00
2018-04-22T06:45:03+09:00
2017-12-14T13:52:24+09:00
ofuna-law
地域の出来事 歴史 研究等
先日テレビ番組で初めて知ったことなどを合わせて書いてみます。
1246mの山全体が山岳信仰の対象。なお、標高に由来し、大山街道を国道246号にした(下3桁が同じ)。が、のちの精緻な計測で現在は1252mと訂正されている。
古来、雨を降らす神(大山の別名が、雨降らし山)として信仰を集めた。現に、平塚事務所の窓から正面遠くに鎮座するが、山頂までよく見える日は翌日晴れることが多いです。
元は天台宗。大山寺(明治の神道国教化により大山阿夫利神社)。現在は、大山寺と大山阿夫利神社とが両立している。
修験者が集まり、戦国時代は武装化し僧兵がいた。
北条早雲は、それらを抱え、小田原城の支城山中城(静岡県三島市)を守らせた。山中城は、のちの秀吉の小田原攻めで滅ぼされる。多くの僧兵が殺されたという。
関東を与えられた家康は、大山の僧兵を警戒した。
そこで慶長年間、天台宗を真言宗に改宗させ、僧兵(僧)たちを山から下ろした。
その僧らが山麓で御師(先導師)となった。
御師といえば、伊勢神宮や出雲大社が有名。いわばツアーコンダクターとして、参詣客を営業し、連れてきて、世話をする。
その御師の営業力と江戸から近い立地などから、大山詣は大流行した。
講とよばれる参詣団体や、大山街道(大山道)とよばれる参詣道が整備されることになる。
大山詣とセットとされたのが江の島詣(神奈川県藤沢市)。
大山からは相模湾(湘南)が展望でき、江の島が見える。
山に来たら次は海ではなかろうか。
一説には、大山は男の神(大山祇神。かつては石尊大権現)。これと女の神(江島神社は弁財天。日本三大弁財天のひとつ)とを同時に詣でること、これが御師のヒット企画ツアーだったという。
江戸時代、参詣客の96%が男性というデータがあるそうだ。女人禁制や男尊女卑が関係しているのだとも思う。
大山と江の島の間には、藤沢宿がある。歓楽街がある。
精進落としのついでに、藤沢宿で歓楽する。これの点が96%を占める男性参詣客に人気だったのではないか。
藤沢市城南には、大山の「一の鳥居」がある。
謎なのが、小田急の伊勢原駅近くにも「一の鳥居」があること。
仮説ではあるが、伊勢原の一の鳥居は、昭和に伊勢原駅ができ、これを利用する参詣者のためにできたものではないか。
あるいは、大山道は、大山を終点として、放射状に広がっているから、ルートごとに始点付近に一の鳥居があっておかしくないということである。
なお、二の鳥居からは、山麓近くに位置し、ひとつずつしかない。
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辻堂駅開業100周年
http://ofunalaw.exblog.jp/26241422/
2016-12-01T00:00:00+09:00
2017-12-27T09:33:37+09:00
2016-12-16T15:28:12+09:00
ofuna-law
地域の出来事 歴史 研究等
地元住民が資金と用地を提供招致した住民誓願駅という特徴がある。
100周年を機に、発車メロディーが地元ゆかりの「浜辺の歌」になった。
1872(明治5)10.14に新橋~旧横浜間で鉄道が開通。
それが東海道本線として西に延び、15年後の1887(明治20)7.11に国府津駅まできた。このとき、戸塚駅、藤沢駅、平塚駅、大磯駅が同時開業。いわゆる「湘南電車」だ。
ちなみにその後、
1888(明治21)11.1大船駅開業。
1898(明治31)6.15茅ヶ崎駅開業。
1902(明治35)4.15二宮駅開業。
辻堂駅はこの後の開業になる。
国府津から西は、1920(大正9)10.21に小田原駅が開業。
このとき、鴨宮駅の前身の酒匂川信号所が開設され、1923(大正12)6.1に駅に昇格し鴨宮駅開業となった。
現在、大船~藤沢の中間に新駅開業のプロジェクトもあると聞く。
発車メロディーにつき、湘南電車では、今回の辻堂「浜辺の歌」のほか、茅ヶ崎は「希望の轍」、平塚は「たなばたさま」、小田原は「お猿のかごや」と、地域色豊か。
なお、二宮駅は菜の花の時期限定で「朧月夜」になる。大磯駅では「われは海の子」へとの動きがある。
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平塚七夕祭りの「技」
http://ofunalaw.exblog.jp/25726482/
2016-06-22T20:01:19+09:00
2016-10-11T18:45:01+09:00
2016-06-22T20:08:34+09:00
ofuna-law
地域の出来事 歴史 研究等
七夕は、旧暦(1か月程度遅れた8月になる)で考えると天気はよいのに、新暦で考えると梅雨の時期になってしまいます。
七夕に天の川が見れた記憶がないのはそのため。
新暦で行われる平塚七夕祭りの特徴は、期間中の雨の多さ。晴れる年は晴れますが(今年は空梅雨及び梅雨明けが早そうなため大丈夫なはず)、去年は三日間ほぼ雨でした。
ゆえに、
晴れ間を狙って行くのがよく、そのためには、数日前からの天気読みが大切。
言い換えると、行く日の特定が早すぎると当日雨になる確率が高い。
長い道の竹飾りを見ながら歩く祭りだから、折角なら晴れがよかろうと。
仙台は旧暦かつアーケードで屋根あり。対して、平塚は新暦かつ屋根なし。と肝に銘じるとよいでしょう。
露店が非常に多種多様で豊富なのも大きな特徴で、平塚七夕祭り=竹飾り+露店、という式が概ね成立します。
しかし、人や露店の圧倒さに比し、座るところの稀少さが目立つのが現状(至難の獲得競争を呈し、途方なく彷徨うことになりかねない)。
立ちながら歩きながらや地べたで食べるのがもし嫌なら、敷物やハンディな折り畳み椅子の持参がおすすめです。
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玉縄城(関東三名城)
http://ofunalaw.exblog.jp/23906463/
2015-10-01T08:00:00+09:00
2018-03-13T21:06:44+09:00
2015-04-13T06:26:02+09:00
ofuna-law
地域の出来事 歴史 研究等
江戸城・川越城と並ぶ堅城で、関東三名城といわれた。
なお、辻堂事務所至近には、大庭城(城址公園になっている)がある。ここは遡ると頼朝時代に,大庭氏という武士がいて,頼朝と対峙し,最終的には滅ぼされた。
のちの早雲時代も,城として機能していた。
早雲は,三浦氏と縄張り争いをしていた。
当初の攻防ラインが大庭城,その後早雲勢優勢となり,玉縄城が攻防ラインとなった。
攻防ラインが西に移動したことにより,大庭城はその役目を終えたと言われている。
その後,早雲は三浦氏を滅亡に追い込む。
平塚事務所のある平塚市には、平塚城(平塚農業高校の場所。遺構はほぼない)があった。東京豊島の平塚城と区別し、相模平塚城ともいわれる。
城があり、城主や家臣がいて、戦があり、治める民がいたこと。思いをはせるときりがない。
加筆予定(調べ中)。
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相模国六社をめぐっておみくじ「訴訟勝つ。油断は禁物」
http://ofunalaw.exblog.jp/24275281/
2015-06-18T09:00:00+09:00
2015-06-29T10:17:17+09:00
2015-06-18T03:16:47+09:00
ofuna-law
地域の出来事 歴史 研究等
相模国六社は、次の六社。
延喜式(式内)神社に分類されてますが、その格式は現在不明。ただ、少なくとも神奈川(特に湘南)では、中でも特に寒川神社が有名だし、格式は高いはず。以下もその系列だから格式は高いのではと想像してます。
一之宮・・・・・・寒川神社(寒川町)
二之宮・・・・・・川匂神社(二宮町)
三之宮・・・・・・日比多神社(伊勢原市)
四之宮・・・・・・前鳥神社(平塚市)
五之宮(格)・・・平塚八幡宮(平塚市)
総社・・・・・・・六所神社(大磯町)
土地柄、幼少より寒川神社はよく知っていて、ここは「相模国一之宮」のキャッチ一押し。
ならば二之宮以下は、どこでどんななの?というのが発端。
順不同で、まず去年に平塚八幡宮、今年に入って前鳥神社→日比多神社→川匂神社を参拝。
パワースポットさでは前鳥神社が一番(参道アプローチが長く荘厳なのがよい)。
劣らず川匂神社(上に茅葺きの門を見ながら長い階段を登るとひらける先の社に風格あり)。
日比多神社は境内が小さいのでその分パワーも弱いように感じますが、強いか弱いかでいえば強いです。
平塚八幡宮は、噂では国道整備の関係で参道が削られたらしく、その分パワー減殺した感じがします。
古来、地場の武士・武将は、神社仏閣への寄進等で、力を誇示し民衆の支持を集めたとのこと。
この地では、まず頼朝。次に早雲のはずなのに特記はなく、出るのはその後の家康。
頼朝は政子安産祈願と寄進、家康は衰微を再興して種々の戦勝祈願をし、これらは六社共通の歴史(なお、以前ブログに記述した家康の江島神社弁才天での戦勝祈願も、その一環に位置づけられると推理され、その後の民衆の江島詣でに繋がる流れは既述)です。
で、本来参拝時にご朱印をもらうとツウと思いつつ、そこまではしてはないので、ツウではないのが残念。
代わりにすることは、必ずおみくじ。
結果が悪かったら結び、よかったら財布に入れます。今のところ、一度も結んでないのが自慢。
おみくじの項目の中に「訴訟」あるいはそれに類似するものがあって、例えば、「勝つ。油断は禁物」とか書いてあります。
玉虫色の記載ゆえ、反対解釈(仕事柄、穿っています)すると、油断したら負けるかもしれない、と突っ込んでしまいたいけど、そこはおみくじ。
次は、近いうち、気の向くまま、六所神社へ行きたいと思っています。
季節柄、あじさいが咲いていたら一石二鳥なのに。
なお、昔は、京の都から官吏が赴任すると、一之宮から1つずつ参拝していた習わしだったところを、各神社を分祀して合祀したのが六所神社。
だから、ここを参拝すれば、全部参拝したことになるとのこと。
移動手段が基本徒歩だったとはいえ、いわゆる省略なわけで、それでよしとしてもよかったのかなという疑問なし、としません。
結局今回も、法律とは無縁のブログになってしまいましたが、一応、「訴訟 勝つ。油断は禁物」についてと、反対解釈については書いたので、それで、よしとして疑問なし、としてほしいところです。
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神奈川の別荘地 大磯・鵠沼
http://ofunalaw.exblog.jp/24084633/
2015-05-12T09:00:00+09:00
2015-06-29T10:25:58+09:00
2015-05-12T03:15:10+09:00
ofuna-law
地域の出来事 歴史 研究等
(軽井沢に関する余談ですが、軽井沢を別荘地として有名にしたのは外国人です。外国人が気候や環境に着目して開拓。今や日本一ともいえる別荘地になりました。)
神奈川では鎌倉の海辺も、昔、多くの文人の別荘地であったことは有名な話。
ただ、今回は、鎌倉は抜きにして、大磯と鵠沼について書きます。
両者のうち、先に別荘地となったのは、大磯です。神奈川県中郡大磯町。
(またも余談ですが、この中郡には二宮町もあり、大磯町と二宮町はライバル関係です。あたかも、浦和と大宮、前橋と高崎、長野と松本のような構図がぴたりとあてはまります。例えば、大磯町出身の人に、「二宮町出身でしたっけ?」と間違えようものなら、小一時間は説教を受ける事態に陥ります。。。)
大磯に別荘を持っていた有名人では、伊藤博文、島﨑藤村、吉田茂、原敬などそうそうたる面々がいます。
(なお、吉田茂が大磯の別荘へ車で向かうにあたり、戸塚の開かずの踏切のせいで時間がかかりすぎるため、横浜新道の西にバイパスを整備させたという噂があります。余談ばかりですね。)
さて、なぜ、当時、大磯が別荘地になったのか?と思って少々調べた結果、明治~の交通が東海道本線(鉄道)のみということが関係しているようです。
東京から東海道本線に乗車した場合、海に直近するのは、品川の次が大磯が初めての地(ちなみに、「品川→横浜→(戸塚)→大船→藤沢→(辻堂)→茅ヶ崎→平塚→大磯」。現在の電車で1時間強ほどかかりますから、当時はもう少しかかったと思いますが)。
先日、先々本格的に大磯の有名人の別荘地散策をしようと思い、軽く下見しましたが、別荘地らしい風情が残っていました。潮風が心地よく、さながら離島の海辺の町のような感じ。古い家が多いです。道も狭く、それがまた昔ながらの雰囲気を醸し出しています。今後の本格散策が楽しみになります。
さて、一方、鵠沼は、藤沢市鵠沼または鵠沼海岸。江の島のやや西側に位置する海辺です。
藤沢駅からは、江ノ電または小田急線で数駅で到着。
この江ノ電や小田急線は、大磯が別荘地として栄えた頃にはまだ開通していませんでした。
ゆえに、大磯のほうが別荘地としては先で、鵠沼は後になるわけです。
江ノ電または小田急線開通後に、鵠沼は別荘地になり、栄えることとなります。
東には江の島、西には富士山が見えますし、閑静。いまでも海辺には砂防の松林がありますが、そういった風情。
あと、海水浴場があります。海水浴場としては、大磯も勿論適しますが、鵠沼は砂浜が大磯よりも東西に広いように思います。
また、丁度、ここらの海岸では、鵠沼のみ遊泳に適しているという特徴も関係しているかもしれません。
少し東に行ったり、少し西に行ったりするだけで、砂浜から海に入ると急に水深が深くなり、遊泳が危険になります。現在、鵠沼の東と西は、遊泳禁止区域になってますし。
ゆえに、藤沢市の海辺で別荘に適しているのは、鵠沼しかなかったように推察します。
ちなみに、いま鵠沼は別荘地というよりは、閑静な住宅街になっています。
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日本三大・関東三大「七夕祭り」研究
http://ofunalaw.exblog.jp/23797765/
2015-03-30T12:40:00+09:00
2018-05-17T06:49:35+09:00
2015-03-30T12:40:18+09:00
ofuna-law
地域の出来事 歴史 研究等
「日本三大七夕祭り」は、まず第1と第2は確定していて、仙台・平塚。
第3には、争いがあり、愛知県安城市と愛知県一宮市が、それぞれ主張している。
ただ、近時、安城市は、その主張を「願いごと日本一祭り」に変更した。弱気とも思える一方、日本三大七夕にこだわるよりも、日本一にこだわったのであろう。もっとも、願いごと日本一祭りという主張をしていることそのものが、市民はもとより全国に周知されておらず、現在のところ、その目論見は成功していない。。
第3を、安城説とするか、一宮説にするかについては、一宮説とすべきである。
理由は、上記のとおり、日本三大の主張を変更した安城よりも、安城よりも分が悪かった一宮が、自ら日本三大にこだわりつづける、その心意気を評価すべきこと、また、それに、後述する由来(なぜ、一宮にて七夕祭りが始まったのか)の説得力である。
2 関東三大七夕祭り
「関東三大七夕祭り」というくくりもある。平塚、埼玉県狭山市(入間川)、千葉県茂原市である。
ただ、平塚は、自らは全くこの呼び方を主張しない。
日本三大に数えられる以上、それよりも小さい関東三大というくくりは、平塚にとって不要だからであろう。
平塚の並々ならぬプライドが見て取れる。。
3 歴史
もともと、七夕を祝うようになる風習は、江戸中期とされる(諸説あり)。現在も、家や地域で、笹を立て短冊を飾り願掛けをして祝う。
それが大規模な「祭り」とされたのが、仙台で、江戸中期からのようである。ただ、風習が徐々に大きくなり、祭りとなるのが通常の流れであることからすると、風習が江戸中期からとすると、同時期である江戸中期の仙台の七夕祭りの規模は、小さかったと推測される。
仙台は、その起源を、藩主伊達正宗公が、子女の手芸を上達を願うため、強く七夕を祭ったことに由来するとし、その時期を、江戸初期としている。
正宗公が子女の手芸を上達を願ったことや、正宗公が江戸初期に活躍していたことは正しい史実としても、そのころ(江戸初期)から強く七夕を祭ったというのは、七夕が祝われるようのがそもそも江戸中期だとすると、飛躍が否めない。
むしろ、昭和以降の仙台が、日本一の七夕祭りであるという主張を強く根拠づける後付けの主張とすべきではなかろうか。。
なお、七夕を江戸中期から祝うようになったという起源を裏付ける資料まで当たっていないので、その起源自体が揺らぐならば、江戸初期に仙台が七夕祭りを始めたという事実は、その正当性が強まるので注意が必要である。
さて、なぜ七夕が「子女の手芸の上達を願う」なのかというと、物語上、彦星と織姫が、願う=「願掛け」となり、短冊を書くは、短歌を筆で書くことで、短歌は、学問を意味し、筆で書くは、習字と転じていること。また、織姫の「織り」が、針仕事・機織り・染め織りを意味すること。それゆえ、これらの上達を願う祭りに繋がってくる。もちろん、祭りであるから、豊作豊漁を願い、それに感謝することも含まれてくる。
話を戻すと、仙台の七夕祭りは、江戸中期には始まっていた。そして、その起源は、伊達正宗公にある。
では他方、仙台以外の、平塚・安城・一宮・狭山・茂原での始まりはいつか。
平塚は、昭和25年
安城は、昭和29年
一宮は、昭和31年
狭山は、江戸中期
茂原は、昭和30年
である。
狭山の歴史は、仙台と同じころからであった。
他方、仙台・狭山以外の平塚・安城・一宮・茂原は、戦後である。戦後に開始したのは、いずれも、戦後の復興祭という意味合いが非常に強い。すなわち、地域振興や、周辺地域からの来客を呼び込む意味合いである。
ただ、「戦後の復興祭」は全国各地で行われたのであり、なぜ「七夕」なのかという意味は疑問である。この点に関しては、七夕の上記意味の側面からアプローチしてみる。
織姫の「織り」からは、繊維・紡績へと意味を転化できる。
この点で、まず、平塚には、関東紡績と相模紡績という紡績工場が存在していた。
この点で、七夕との強いつながりを見い出せる。
同じ意味では一宮が該当する。一宮は、昔から繊維・紡績で栄えた。
そもそも、一宮とは、尾張国一宮を意味し、宮とは神社であって、「真清田神社」のこと。
この神社の祭神の、母神が、「萬幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)」であり、機織りの神。
このことからも、一宮が昔から繊維・紡績で栄えたことが認められる。そして、現在も、繊維・紡績業は行われている。
それゆえの一宮七夕なのである。
なお、上記のとおり、日本三大七夕祭りの第3について、一宮説(安城説を否定)を支持するのは、「織り」と「真清田神社」という説得力を評価したゆえである。
一方、安城と茂原については、現状、七夕の意味からのアプローチは困難であった(なお、安城には、倉敷紡績安城工場という紡績工場があったが。。)。
現時点では、この二つの地で、戦後復興のためになぜ七夕か、という疑問には、「偶々」という答えが相当のようである。。もちろん、学問・習字・針仕事・手習い・豊作豊漁祈願等の意味があり、七夕を祭るという意義は極めて重要である。
4 開催時期・規模
日本三大・関東三大といわれるのは、上記由来や歴史に加えて、規模という要素は欠かせないであろう。
加えて、時期も列記し、それぞれの祭りを比較してみる。
なお、七夕が7月7日であることは公知の事実である。もっとも、日本には、旧暦と新暦がある。旧暦の7月7日は、新暦の7月の下旬から8月上旬とされる(太陽の位置で換算するようで、幅があるらしい)。
仙台 204万人/3日間(日換算68万人) 8月8日ころ 3日間開催
平塚 170万人/3日間(日換算56万人) 7月7日ころ 3日間開催
安城 102万人/3日間(日換算34万人) 8月8日ころ 3日間開催
一宮 130万人/4日間(日換算32万人) 7月下旬ころ 4日間開催
狭山 43万人/2日間(日換算21万人) 8月8日ころ 2日間開催
茂原 84万人/3日間(日換算28万人) 7月下旬ころ 3日間開催
このデータ比較からすると、日本三大七夕の第3について、安城と一宮がしのぎを削っているのがよく分かる。さながら、餃子消費量で宇都宮と浜松が競っているのと同じ構図といえよう。。
ちなみに、平塚のみ新暦を採用している点が耳目に値する。
新暦を採用した場合、伝統性や歴史性から離れるという難点が否めないが、開催開始時の平塚市長は、新暦にすると、「飾りを旧暦開催の七夕祭りの地へ譲渡できる」と話していたという。一見合理的である(ただし、この点については、最期に余談で述べる)。そして、この合理性から推理すると、新暦開催は、旧暦開催の七夕祭りと時期がかぶらず、来客が見込めると考えたのではなかろうか。
5 余談
湘南では、まことしやかに「平塚七夕祭りの飾りが、仙台七夕祭りで再利用されている」と言われている。
このことを、仙台の方々に話すのは危険である。猛烈に否定され、友好が途絶えかねない(実際、そのような体験をしたことがある。人格否定に近かった。。)。
また、仙台同様、旧暦開催の安城・一宮・狭山・茂原の方々に、「平塚の七夕祭りの飾りが再利用されている」と話そうものなら、仙台の方々と同様、断固否定され、友好が途絶えかねない。
それは至極当然である。
地元の祭りなのだから。
飾りは、地元市民や地元企業が、願を掛け、祝金を掛けて、創意工夫し独自の飾りが作られるはずだからである。
平塚七夕祭り開始当時の平塚市長の「譲渡」発言は、一見合理的であったが、実現しなかったと考えられる。
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