仮説「後北条氏はなぜ地味か」
後北条氏は、戦国時代における関東の覇者である。初代早雲は下克上の先駆けでもある。
家康も、江戸城、江戸の街づくり、上水整備など、小田原を模した。
にもかかわらず、後北条氏はなぜ地味なのか。
地元に住む筆者が痛感するのだから、その地味感は自然な国民感覚であろう。
私見であるが、理由のひとつは、天下人秀吉に負けたこと。歴史における敗者は、勝者の歴史を華々しく飾る反作用として、殊更愚者として描かれる。
これは、例えば、桶狭間の勝者信長を上げるべく今川義元を愚者に下げる、大阪の陣の勝者家康を上げるべく豊臣秀頼を愚者に下げる等々、枚挙に暇がない。なお、近年、義元にせよ秀頼にせよ、その器量はとみに見直されている。
同じ構図が、後北条氏も正に当てはまると思うのである。
理由はそれだけでなく、もうひとつあると思っている。
小田原城陥落後、秀吉の命により、家康が関東に転封され、江戸を本拠とした。が、関東は、早雲公以来五代、70年以上にわたり後北条氏が支配していた地。
後北条氏への領民の信頼は厚く、領民にすれば、家康は完全に外様であった。
家康とすれば、関東の領民の信頼獲得の策を要したはずである。
この局面では、家康が、後北条氏を愚者とするのは、失政に繋がる。後北条氏を信頼する領民の反発を買うおそれがあるからである。
後北条氏を受け継ぎつつ、それを上回ることにより、後北条氏よりも家康がよいというように威光を高めていくのがよい。
現に、家康は、関東(少なくとも相模の国)の神社ほとんどに積極的に寄進をするなどした(後北条時代における小田原城の鬼門守護を担っていた二宮「川匂神社」への寄進は端的な一例であろう)。
それだけでなく、関東武士の祖である頼朝にあやかった。これは注目点である。頼朝を再評価し、自身を頼朝に重ね、その威光を利用したのである(地域的に頼朝と家康の伝説は多々残るのに、後北条氏の伝説は不思議にもすっぽり抜けた如く残っていない)。
こういった地道な政策が進めば進むほど、頼朝と家康が強調され、対して、後北条氏は、漸次薄れていくことになったように思う。
以上、ふたつの大きな理由により、後北条氏は地味になってしまったと考える。
ただし、まだまだ調査検討熟慮が必要な問題である。
ブログランキングに参加しています
バナーをクリック頂けると幸いです